第一章 The Exposed – さらされたもの

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 第一章 The Exposed – さらされたもの


 
 

1.

 

 『血の鎖』なるものに導かれたわけでは、断じてない。

 

 睥睨する限りにおいて、終わりのない紅い大地と、それを圧倒的に取り囲む朱色の空。
 そのさなかに、ぼくは立っている。
 そして、停めたばかりの一人用(ソロ)ホバー・クラフトの傍らで、ぼくは地表面に織りなされた、大いなる亀裂――『谷』の全貌を、見渡していた。

 ――あるいは、こんなことを、ふと思ったりもする。
 いかなるものも、歳月による変化というものを避けられないのかもしれない、と。
 例えば、ぼくについて言ってしまえば――初等教育の時期はとうに過ぎてしまっており、故に、いかんせん今のぼくの関心は、遠隔(テレ)カレッジの『基礎地質観測学I』――その第二期末レポートに向けられている。
 『観測学I』受講者に与えられた課題は、以下の通りだ――『当該学生の生活圏の近隣のある一地点における自然地質学的、または造成地質的特徴について、一定の期間、学生自身が実測した客観的データに基づいて、場合においては仮説を交えながら記述せよ』。提出期限は翌年一月八日とする。
 ……文面こそ少しばかり物々しいし、加えて、なんだかそっけない。ともあれ、かいつまんで言うならば、『身の回りにある地形を観測してね』という、ごくシンプルな課題だ。
 この文面を見て、すぐに心に浮かんだ場所だった。
 ぼくの住む街から北東へ――正確には、ナピ方位四十三度七分へ――荒野を前進して、およそ二十七.六キロメートルの地点。
 そこに今もひっそりと佇む、ぼくの幼少の記憶に浮遊していたあの大きな谷間は、地質学レポートの対象として、実にふさわしいものに思えたのだ。

 ひとりで荒野に出ることも多くなった。それでもぼくの知る限りにおいて、ここまで大きい渓谷地形は、街の近くには存在しなかった。望ましいことに、行き来の利便性も悪くない。確かにここは人里から離れたナピの荒野のど真ん中だけれども、日常的に家からホバー・クラフトで通えない距離では決してなかった。
 計測装置も起動せずに、まず最初に発見することができた、重要な学術的事実がある。
 ――子どもは、やむにやまれず、過大評価に走りがちだ、ということだ。
 ひとたび、地形マップに従ってホバーを走らせれば、街からの距離があの記憶で感じられたほどには遠くなかったことを、痛烈に思い知らされてしまった。
 子どもというのは、いかんせん肉体が小さいから、相対的になんでも大きく見えてしまうのかもしれない。
 そして何よりも幼少の過大評価が一際目立ったのは、他ならぬ谷間そのものだった。
 前述した、『どんなものも歳月の変化を避けられない』という話にも与するのだけれども――こうして実地で観察してみると、六歳当時のぼくが“感じていた”、この渓谷のサイズのギャップには、まったくもって驚かされるしかない。
 確かにこの谷は、比較的に見れば大規模な地形だ。
 とはいえ、せいぜい全長は二百メートル弱といったところで、『谷の果てが地平線に埋もれて、まるで全容が見えない』などということは、決してありえない。子どもの頃との視点の高低差もあるのかもしれないが、それよりも印象や心理的要素による差異に思えてならない。また、もう一つのパラメーター――崖の深さについても、『まるで底が見えない闇の深淵』のようにあの時は感じられた一方で、今、崖の際に少し身を乗り出してみると、底の大地の光景ははっきりと見渡すことができてしまうのだ――谷底までは、低いところでせいぜい二十メートル程度だろう。プレート状の岩肌の上に、つつましい岩石の塊が転がっているのも、明瞭に視認できた。
 あの日、父さんとともにこの谷間と直面した時、ぼくはしばらく体を動かせなかった。心底から湧き上がる恐怖に、飲みこまれていたのだ。
 あたかも、全身にのしかかってくるようにさえ感じられた、この谷全体が包有し発散する、超自然的な凄絶さとでもいうべきもの――。
 ぼくの記憶の中に、それは厳然と刻み込まれている。
 そして今、ぼくが立っているのは、まったく同じ谷の縁だ。
 だが、あの時に直面した圧迫感は、微塵も感じられなくなってしまった。
 幼少時の過大評価と、その相対的な埋め合わせ。
 あるいは。
 ――大人になるって、こういうことなのだろうか?
 ……そういうことかも。
 くだらないことを考えながら、ぼくは谷を崖下へ降りるための斜面を探した。この谷間の形状がそのままなのであれば、崖に沿った形状の、徒歩で降りられる傾斜が存在するはずだった。それらしい場所は思いのほか簡単に見つかったので、ぼくは網膜投影ホロを指のジェスチャーで呼び出し、ホバーの本体と関連付けられたパーソナル・マップ上に地点マーカーを設置した。これで今後の移動が少しは楽になるはずだ。
 足下の岩盤は土砂の少ない安定したものだった。それでも滑落には気をつけながら、決して広くはない天然の斜路を降りていった。
 ほどなくして。
 谷間の底――すなわち崖の下に広がる、開けた領域に、ぼくは辿り着いた。

 

 ぼくは、そこで初めて、明確なノスタルジーと言えるものに直面したのだと思う。
 崖下の空間。
 閉ざされた未知の領域は、どのような意味においても、健在だった。
 静謐で、光に満ちた、地の底の庭園。
 その広大さにおいて、六歳の記憶に沈殿した印象と、眼前の光景を、ぼくはまざまざとオーバーラップすることができた――そこは左右から巨大な壁に挟まれて、それでいて十分な広大さと、奇妙なほどの明るさを有する、奥行きを持つ長方形の空間だった。
 すべてが、あの頃のままだった。
 ぼくは大いに安心すると同時に、若干の奇妙さも感じられた――この場所は、先ほど地表で見た、『あの頃に感じられたほど大きくはない谷』の底面にあたる。つまり、その広さにおいてはほとんど同一なのだ。それと知っているにもかかわらず、やはりぼくの立つこの空間は、とても広大なものに感じられた。大地の亀裂と、その底部のもたらす印象のアンビバレンツ――なんだか、だまし絵を見るような気分だ。
 思わず、目を細めてしまっていた。深さ二十メートルに及ぶ崖の底なのに、あの日と同じく、やはりこの大地は、奇妙なほどに明度が高かった。地表よりも明るいようにさえ感じられる。
 どうして、ここまで明るいのだろうか?
 ぼくは顔を上げて、この空間を挟む、二枚の巨大な壁面――すなわち、崖の断面を仰ぎ見た。
 今ならば、ある程度の推測くらいはできる。
 まず、この谷間の形状と地点が、とても太陽光を取り込みやすい配置にあるのだ。この惑星ナピの自転軸は太陽への軌道面に対して垂直に近く、またこの辺りはナピの赤道直下であるために、ナピの朱い太陽は東から西の空へと、ほとんど天頂を通るかたちでまっすぐ移動する。それが同じく東西に走るこの谷間の形状と、かなりの精度で一致していた。
 そしてこの場所を地表面よりも明るくしている理由は、反射光の存在に違いない――巨大な壁面の一対を見ながら、ぼくは確信する。切り立った二つの崖は、ナピにありふれたごつごつとした形状の大地よりも、ずっと平たい面を覗かせている。また断絶面であるためか、若干色も明るい――つまり、陽光の吸収率が低い。天から降り注いだ陽光の一部はこの壁面を反射して、それらが集積するのは、谷の底部であるこの崖下に他ならない。
 つまり、入り込みやすい直接光と、二枚の壁の反射光のコラボレーションが、この空間を地下でありながらも光に満ちた世界へと据えているのだった。もちろん、十四度というナピの赤道傾斜角が存在する以上、時節による変動は認められるだろうし、陽光の届かない朝や夜は地表よりも大きく明度が落ちる可能性が高い。その辺りは今後の崖下の測定データから、更に詳しく把握できるかもしれない。
 今後の調査を楽しみに思いながら、ぼくは崖下の地表を壁面に沿って歩き、この渓谷地形の所々を確認していた。谷の底は歩きやすかった。やはりこの谷の形成過程に由来しているのか、二十メートル上にあるナピの一般的な荒野よりも、地表面の凹凸や岩石の量が少ない。見る限り、構成物質はナピにありふれた酸化鉄の割合の大きい玄武岩と同じようだが、突起や岩石はほとんど見られず、平たい岩のプレートが幾層にも積み重なっている景色は、見慣れている地表面とは趣が異なっている。
 『観測学I』レポートのための観察・記録過程は、準備も含めて、今日からおよそ二ヶ月間――六十五日を予定している。一学生の単なる課題レポートの測定としては少しばかり長すぎるのだけれども、他の講義のレポートはもうあらかた仕上がりそうだったし、ぼくは都合上、この科目で良い成績が欲しかった。そうした理由を差し引いても、何より、ぼくはこうした地質調査が好きだったのだ。
 この崖下の広大な空間において、どのような観測用センサーをどう配置するのが望ましいのか――ぼくは既に、そんなことを考え始めていた。
 しかし、大岩と壁面に挟まれて、やや狭くなった道を通り抜けた直後に、その思考は中断させられることとなる。
 あるものが視界が入り、立ち止まった。
 『洞穴(どうけつ)』だった。
 この崖下の空間を作り出している、一対の並行する巨大壁面。
 その一枚の最下部、地面との間隙に。
 逆三角形の暗い入口が、穿たれていた。
 あの日と、まったく同様に。
 猛烈な勢いで、記憶が湧き出してきた。

 ――幼い背に抱えた貨物の重さ。歩く度に体の重心を左右に揺らしたその感覚。見知らぬ世界への恐怖と高揚。教えられた緊急用シグナルブーストの使用手順。どこまでも続くようだった谷間の底の暗い色。そして奇妙な話を吹き込まれた、ランタンの光ばかりの洞穴の奥底で、その入口を前にして、
 長い、とても長い影を落とす、父さんの背。

 思わず、声を出しそうになった。
 今ぼくが立っているプレート岩盤の上が、あの日に父さんが立っていたところと完全に同じ地点であると、咄嗟に思ってしまったからだった。馬鹿げた思い込みだった。すぐに違うと分かった。まるで見当外れだ。ぼくの立つ場所は、やっと入口が見えたところなのだ。その場所は、もっと洞穴に近いところだ。
 ――参ったな。
 ――怯えるような頃でも、もうないだろうに。
 少し、気を落ち着けよう。
 洞穴の入口から目を逸らして、ぼくは何気なく、もう片側の壁面へと視線を転じた。
 そして、再び、呆然とすることになる。

 ぼくが視線を釘付けにしていたのは、壁面に接した隅のところ――この崖下の地表を構成しているプレートが何層か引っ込んで、やや落ち窪んで暗くなっている広い空間だ。
 その中央に、異常な物体があった。
 大量の疑問を必死に処理しながら、ぼくは十数メートル先に見えたそれを見据える。
 黒く焼け焦げた、金属の残骸のようなものに見えた。
 見る限りにおいては、動いてはいないし、煙や光を放っているわけでもない。
 ジェスチャーでスリング・ベルト上のネクタル・モジュールを操り、緊急用フィールドの正常動作を目視で確認する。
 心もとないが、多少の爆破衝撃や熱線なら耐えられるように。
 ある程度まで、接近してみることにした。
 落ち窪んだ縁の辺りまで歩み寄ると、多少は分かってきた――どうやら、何らかの構造物の、剥き出しになった骨組みのようだ。高さはぼくの背より小さいが、全長は間違いなくぼくよりも大きく、幅も広い。本来は細長い形状だったものが、ずたずたに破壊されて、横倒しにされているような印象を受けたが、元の形状を知らないために判断できない。全体の先端部と思われる箇所に操作盤のような金属部を確認したが、やはり恐らく熱によって黒く変色しており、かつ大部分が破損しているために、これも判別が難しい。
 息を飲むしかなかった。
 ――なんだ、これは?
 ただの小さな洞穴の入口を見て、過去の記憶を呼び起こされてしまったのとは、まったく話が違った。
 この純粋な自然地形に、完全に異質の物体が鎮座していたのだ。
 もちろん、前回にここに来た時――父さんとともに来た幼少の時分には、こんなものは、なかった。
 ――いったい、どうすれば……?
 謎めく物体をただ観察するばかりで、今後のことを闇雲に考える余裕さえなかったぼくを、まるで待ち焦がれたように。
 何かが、聞こえた。

 

 気付いた時には、首を、視線を、そちらに向けていた。
 例の洞穴の、暗い入口だった。
 そして、
 入口の傍らに、『それ』がいた。
 猛烈な違和感があったことだけは覚えている。
 およそ十メートルほどの距離があった。
 前述のとおり、崖下の空間は光に満ちており、明瞭な視界が確保されていた。
 それでも、なお。
 視界の中に現出した『それ』の正体を、ぼくは当初、まるで認識できなかったのだ。
 あまりにも意外、かつ理解の難しい情報に対して、一時的に脳が処理を拒んだのだろう。
 ――あるいは、視界は、明瞭に過ぎたのかもしれない。
 平常時の地表でさえ強いのにもかかわらず、反射光のために更に重厚に彩られたナピの朱い日差しの中で、ぼくを取り囲んでいた世界は、まるで現実感覚を失っていたから。
 『それ』が、ぼくに向けてまっすぐ接近を始めた時も、立ち竦んでいるしかなかった。
 驚異的な速度のアプローチは、瞬く間に終わりを告げる。
 ぼくだって、何もできなかったわけじゃない。
「やめてくれ」と、言おうとした。
 や、で息が止まった。
 なんの迷いもなく、『それ』はぼくをあっさりと押し倒したのだ。抵抗はしたつもりだ。意識的ではなく、生理的な反応として、ぼくは抗ったのだと思う。恐怖と嫌悪から、腕や胴体を抑えつけてきた外部からの力を振り解こうとしたのだ。
 無理だった。
 背をしたたかに地面に倒され、喘ぐ間もなく、『それ』は自身の全重量を巧みに用いて、ぼくの胴と腕の動きを徹底的に封じた。
 『それ』の指先に刹那の輝きが見えた途端、刃物と思しきそれが、ぼくの喉元に圧迫を伴って抑え付けられた。
 冷たい感触。
 正確無比な頸動脈分岐の位置。
 すべてがひっくり返った、仰向けの視界の中で。
 そびえ立つ崖と崖の合間に、ナピの太陽が見えた。
 恒星の輝きの、隣で。
 不可思議な琥珀色の髪の一束を、背で振って。

 『それ』は、
 ぼくに向けて、
 思念に満ち満ちた大声で、何かを、一言告げた。

 言っていることが、まるで分からなかった。

 

 人間の少女だった。

 

2.

 

 ぼくを、睨んでいた。
 ふたつの黒瞳が。
 強靭な意思を、たたえて。

 目前の少女は、最初の一言より、決して口を開かなかった。
 太陽を背に、その上半身が陰っている。
 何を思うのか。
 真剣そのものの面持ちで、反射光に僅かに輝く瞳で――ぼくの顔を、ただ見下ろすばかりだった。
 だから、その視線の受容者たるぼくも、押し黙るほかにない。
 
 不可解なほどに光あふれる、谷間の底――崖下の世界。
 その中心の平たい岩盤の上で、まったく見覚えのない少女に、ぼくはあえなく打ち倒されて。
 たった今、生殺与奪の権を握られている。
 このような時でさえ、ぼくの脳裏に真っ先に浮かんでいたのは、あるひとつの、やや場違いな疑問だった。
 ――どうして、こんなところに、人が?
 街の外で人と出会った程度のことで、何を大げさな、と、思われるかもしれない。
 しかし、である。
 ぼくが生きるこの小規模開発惑星ナピの、たった五百人を少し超えるばかりの人口や、そのほとんどが不毛の荒野になど好き好んで立ち入らないこと、そしてその広大な原野において、知りもしない人間と出会うという状況の、あまりにも小さすぎる確率――。
 この少女との邂逅そのものが、異常事態と言えた。
 事実、荒野の中で誰か知らない人物と会ったことなど、ぼくは今までの人生で一度たりとも経験したことがなかったのだ。
 探索中に突然現れた細長い影が、すぐに人であると認識できなかったのも、ある程度は仕方がない。
 なんとも不甲斐ない話だけれども。

 そして、今。
 ぼくは、仰向けの姿勢で少女に馬乗りにされて、肩と首を巧妙に抑えつけられていた。
 視界の中に見える、日焼けした細腕。
 少女の体躯は、ぼくよりもずっと小柄に見えた。
 そこからはまるで想定できないほどの、強烈な圧迫力だった。
 肘から地に押さえつけらえた腕が、まるで動かせない。
 自分の首元に、どうしても意識が向かう。
 小さな、冷たい感触。
 刃物の存在を、いまだに現実のものとして受け止められない。
 それを平然とぼくに突きつけてきた、まるで見覚えのない少女は。
 今もなお、両の眼を見開いて、黙念と、ぼくの顔を凝視している。
 なにを、するつもりなのか。
 ――殺す気、なのか。

 はじめは、見知らぬ生物の鳴き声のように、聞こえた。
 すなわち。
 その音声が、眼前の少女が放った『言葉』であると、ぼくには一瞬分からなかったのだ。

 これまでの沈黙とは、完全に一転して。
 少女は、その口を開いて、喉を震わせて、凄まじい勢いをもってして、声を発しはじめた。
 心底から、怖かった。
 紛れもなく目の前のぼくに放たれたそれは、猛烈な、爆発的な、怒涛の勢いの――聞くだけで震え上がってしまうような、尋常ならざる大音声だったのだ。
 意味は、やはり、まるで分からなかった。
 狂気の産物であるかのようにさえ聞こえたそれが、実は何らかの単語の羅列であるということには、数呼吸後にようやく気がついた。
 しかし、まったくの未知の言葉ばかりだった。
 少女は、ぼくに向けて、乗せた体躯を揺らしながら、矢継ぎ早に声を放ち続けている。
 その言葉は、聞く限りにおいては、怒りと憎悪、敵意に満ちあふれているように思えた。
 当然、首に突き付けられていた金属を除けて、彼女の両手がぼくの服の首元の襟を強く掴み上げてきた。
 容赦のない、凄まじい力だった。
 繰り返して放たれる、何らかの詰問じみた言葉と同時に。
 服を猛然と引っ張られて、頭を前後に揺らされた。
 霞む視界の中で。
 大きく開かれた少女の口が、ほんの一瞬だけ視認できた。
 ぼくに向けられる行動には、まったくの容赦や躊躇がなかった。
 故に、強い意志が感じられた。
 少女の持つ、深い黄褐色の――琥珀色、がより適切だろう――束ねられた髪が大きく揺れて、ぼくの頬を叩くこともあった。
 何も、できなかった。
 一切の抵抗は無駄に思えた。
 正直に言って――突然の事態と謎、そして死の恐怖に、ぼくは打ちひしがられてもいた。

 少女の叫び声は、ナピの大地を抜ける猛風に似ていた。
 やがて、終わりを見せた。
 あるいは、伝わったのかもしれない。
 体の自由を奪われ、頸動脈に刃物を突きつけられて、相手の言葉が分からないという、この状況の中で。
 ぼくが彼女に示すことのできた、たったひとつの意思。
 すなわち、
 ――君の話す言葉の意味が、ぼくにはまったく理解できない。
 という、声なき声が。
 ぼくを締め上げて、獰猛な声音で詰問を続けていた少女にも、ついには感じられたのだろうか。
 まるで、申し訳ないかのように。
 服の襟から持ち上げていたぼくの頭部を、彼女はそっと地面に載せた。
 やがて、あの情念に満ちた音声の代わりに、静かな息遣いが聞こえるようになった。

 ――そして、ようやく、ぼくも。
 あるひとつの事実に、気がついた。
 単なる怒声を優に超越した、あるいは最初から怒声でもなんでもなかった言葉を、五臓六腑の底から放ち終えて。
 見上げた先にあった、小柄な少女の表情は。
 今にも、泣きそうだった。
 すぐに理解した。
 ぼくに対して、怒りと憎しみをぶつけていたわけでは、なかった。
 ぼくを詰問した挙句に、殺そうとしたわけでもない。
 この少女は、ただ、

 心からの要求を、懇願していたのだ。
 湧上がる疑問を、尋ねていたのだ。
 見知らぬ人間が、怖かったのだ。

 つい、さっき。
 二人が出会った、その瞬間から。
 きっと、ぼくよりもずっと、彼女はぼくを恐怖していたのだろうと思う。

「……ぼくは」
 喉が枯れていた。
 つい、咳き込んでしまう。
 改めて、視界の中の少女に、焦点を合わせた。
 強い意志を宿した――しかし今にも崩れ落ちてしまいそうでもある、その面に向けて。
 ぼくは、告げた。
「君に、危害を加えるつもりはない」
 彼女が必死に放っていた、『言葉』の数々。
 それは、まるでぼくの知識の範疇外のものだった。
 だから、ぼくの語るその意味も、きっと伝わるまい。
 けれども。
 声の加減や、それを放つ表情については、どうだろう?
 ――対面会話というコミュニケーション手段における信号は、放つ言語の意味そればかりではない。
 それは多分に、非言語的な方向性を含んでいる。
 ならば、あるいは。
 言語圏のまったく異なる彼女も、たとえ明瞭な意味ではなくとも、理解はできるのかもしれない。
 ぼくの意向くらいならば。
 あるいは、感情くらい、ならば。
 伝わりうるのではないか。
 そう思った。
 祈りにすがりつくような、思いだった。
 少女は。
 しばらくの間、体の下のぼくを、硬い表情で見据えていた。
 その黒瞳が、少しだけ困っているように見えたのは、ぼくの思い違いだったろうか。
 ――やがて、大きく息をひとつ吐き終えると。
 指先に取っていた小さな金属片を、その白い薄手の服のポケットに入れて。
 彼女はいともあっさりと、ぼくに加えていた体重を解いて、離れた。

 ここは、光に溢れる、静寂なる谷間の底。
 ついに解放された仰向けの視界の中で、二十メートルの高みにそびえる崖の端の一対が、間隙を満たすナピの朱く澄んだ空と太陽が、ぼくを見つめていた。

 ようやく立ち上がってから、ぼくが何かを告げる間もなく。
 謎の少女は、何の予備動作もなく、ぼくの手をその手で躊躇なく取ってきた。
 思わず彼女に目を向けるも、その面持ちは硬質を保っている。
 しかし、どこか先ほどまでとは違う、ある一定の情感が表れているような印象も受ける。
 消極的な妥協、その端緒――とでも言うべきだろうか。
 ひとつに束ねられた、輝かしい琥珀色の髪を、一度大きく振って。
 彼女は、崖下の平たい岩盤の上を歩きだした。
 ぼくを、後ろ手に引くかたちで。
 こうして並び立ってから改めて、ぼくは少女の小柄さに驚いてしまった。背丈もそうだが、腕や胴の無駄のない細さが際立っていた――この華奢な体で、ぼくを一撃で押し倒して、動作を完全に押さえ込んでいたとは。いや、もちろんぼく自身の運動不足やらも、大いに関係しているのだろうけども。
 ぼくの手を一方的に握る指先の力は、やはり少女の外観とは釣り合わないほどに、強い。
 無言で、陽に照らされた紅いプレート上を、まっすぐ堂々と歩いていく。
 あまりにも素早く整然としたその動作に、再びぼくが怖れを覚える暇もなく。
 琥珀色の髪の少女は、ぼくを招き入れた。

 ――他ならぬ、崖の下に開かれた、あの洞穴(どうけつ)の入口へと。

  

 簡潔に言ってしまえば。
 洞穴の内部は、人工的にライトアップされていた。
 そして、大量のコンテナ群――積み重ねられた不可解な荷物たちで、満ち満ちていた。
 ライトの照らす地面には、布製のカーペットが敷かれており、寝台らしきものや、棚や、作業テーブルと思しき物体が見受けられた。
 追憶の中で――ぼくと父さんのひとつの探検が奇妙な終着を遂げた、洞穴。
 そこは今、他ならぬ少女の棲家と化していたのだ。

 驚愕の思いでぼくが、傍らの琥珀色の髪の少女に、つい視線を移すと。
 ぼくを見返した彼女は、ほんの一瞬だけ、
 口元を歪めて、目を細めて――。

 笑った、のだろうか?

 

 (つづく)

プロローグ The Related – つながれたもの

『惑星開発姉弟(わくせいかいはつきょうだい)のクリスマス』
                      作 ムノニアJ

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 プロローグ The Related – つながれたもの


 
 
 
 どうしてなのだろう。
 幼少の記憶の中で、もっとも強く覚えている光景は、紅い陽の差す谷底にふと映えた、父さんの長い影のかたちだ。
 
 
 
 ◆

 

 ――ここからは、歩いていこう。

 その日の『探検』は、普段のそれとは若干趣きを異にしていた。父さんに明言されずとも、ぼくは自然とその気配を悟っていたのだと思う。
 当時六歳のぼくは、背丈も体重も、現在の半分ほどしかなかった。同年代の平均値に比べても身の丈の小さい、痩せ型の子どもだった。加えて、背負い鞄や腰のスリング・ベルトに括りつけられた各種の道具群にはかなりの質量があり、荒野を進むぼくの歩調を確実に停滞させていた。
 その量の荷物をぼくに渡したのは、眼前で大地を黙々と歩み続けている、背の高いぼくの父さんに他ならない。
 けれども、父さんという人間が、ぼくの力量や意思というものを、無視していたわけでは決してなかった――ということは、ここではっきりと示しておきたい。
 父さんは、ぼくという自らよりも小さな存在を、旅行をともにするひとりの『人間』として、極めて深く尊重していた。ぼくの身体の大きさやその体力の許容量を十分に踏まえた上で、ぼくの力や技術でも扱えるものを揃えた「一人分の道具」を吟味して、ぼくに貸し与えていたのだ。
 また、父さんはしばしば自宅の広間で、それらの旅道具の意義や使用法を、ぼくにもわかる語彙と実践で丁寧に教えてくれた。
 自律発光ランタン、無酸素着火点石(ファイア・スターター)、緊急用シグナル・バーストと追跡装置(トラクター)、ユニークな無電源食糧の三日分、フィールド・モジュール用複合電池――もう完全には思い出せないが、あの道具の組み合わせは、確かによく考えられていたと今になっても感心する。
 それは、探索中に万が一の事態が発生して、探検中にぼくと父さんがはぐれてしまうようなことがあっても、不毛の荒野の中で、ぼくが可能な限り生存率を高めることができる、サバイバル・キットのパッケージだったのだ。
 父さんは、ぼくの精神と命を、極めて尊重していた。

 遮るもののない陽の光が、紅く平坦な地表に、余すところなく降り注いでいた。
 ぼくと父さんが歩みを進めていたのは、街から遠く離れた大地の一角だ。
 一見すれば、あまりにも、見慣れた光景。
 深い色彩の紅い大地の上に、それよりもやや明るい朱色の空が覆って、見渡す限りの視界をひたすらに占めている――この辺境の惑星ナピにおける、ごくありふれた原野の景色だった。
 それでも、従来に見たことのない周囲の山並みのシルエットや、ここまでの移動手段であるホバー・システムの後部座席で暖かな風に吹かれていた時間の長さから、今回がこれまででもっとも街から離れた『探検』であることを、ナピの子であるぼくは直感的に理解していた。
 ふいに、ぼくの名が呼ばれた。
 そして肩に、暖かく大きなものが乗せられた。
 父さんの手のひらだった。
 荷物を全身に抱えて歩くことばかりに専心していたぼくは、すぐ隣に父さんが立っていたことに、そこでようやく気がついた。首を持ち上げて、ぼくはその顔を見ようとした。
 ぼくの父さんは、街の大型作業機械群のエンジニアリング・チーフの職に長年従事していた。作業機械の総体的な管理と配置、設定やメンテナンスの総括が主な業務で、修理のために全長五十メートルを超える作業機械の背を平然と登っていく光景を目にしたこともある。ナピの街に住む大人たちの中でもとりわけ大柄で、全身に必要十分な筋肉をまとった、頑健さを絵に描いたような肉体の持ち主だった。
 それに併せて、家族としてのひいきを抜きにして、人物も健全だった。父さんの顔貌としてすぐに思い描けるもののひとつは、日焼けした太い首の上で、心の奥底に秘めた穏やかな自信とでも言うべきものを、口元に驕りのない笑みとして浮かべる、精悍な顔立ちだ。物腰は常に柔和で人当たりがよく、街の誰からも好かれていた。少なくとも、当時のぼくにはそう見えた。
 あの容姿を思い出す度に、ぼくはつい自嘲してしまう――体格も性質も、ぼくは父さんにほとんど似ることはなかった。父さんの遺伝的形質をより多く受け継いだ子は、どちらかといえば、もうひとりの方なのだろう。

 ――着いたぞ。
 ナピの太陽がつくる、強烈な陰影。
 その陰の内側で、父さんの歯の白さが際立った。
 前述のとおり、街の大人たちと比べても大柄な人物だった。同年代と比べても身体的成長の速くなかった六歳のぼくにとっては、隣にいる父さんの顔は、ものすごく高い場所にあった。実際、手を伸ばしても届かなかった。
 そして父さんのよく通る声を聞いて、やっとぼくは理解した――父さんの右手が、まっすぐ前方へと向けられていることに。
 示された先に、おずおずと視線を転じた。
 見えたのは、崖だった。
 ぼくと父さんの前方には、いつのまにかひとつの広大な谷が現れていたのだ。
 周囲の大地を見渡す。
 本当に巨大な、見るだけでも恐ろしいほどの渓谷だった。
 崖の先を凝視しても、突端がまるでわからないほどの長さだ。切り立った崖と向こう側のそれの間も非常に広く、『あちら側』の同高度の大地は、岩肌の上に僅かに見えるのみだった。そしてその間隙には、ぞっとするほどの深さが待ち受けている。
 ここまでの谷を見るのは、ぼくには初めてのことだった。
 ぼくの立つ、茫漠とした惑星ナピの荒野。そのある地点において、紅い地表をまるで何者かに故意に分割されたかのような――稲妻にも似た形状の、言わば大地のクレバスが生成されていたのだ。
 ――どうしても、お前にここを見せたくてな。
 雄大な谷間の暗い奥底に向けて、じっと視線を注ぐことしかできなかったぼくに向けて、優しく微笑みかけると、父さんは再び歩き始めた。
 見慣れぬ光景に、怖気づいていたぼくに、
 ――この先に、ちょうど歩いて降りられるところがある。ここからは、俺も初めてだ。
 と、父さんは伝えた。

 ぼくたち父子は、大地に開いた巨大亀裂の底に開いた、崖下の大地へと徒歩で降りていった。
 ナピの太陽の赤光を背に浴びながら、荒野の風を全身に感じながら、そして腰のスリング・ベルトに付帯されたネクタル・フィールド・モジュールの庇護を受けながら、ぼくと父さんは、崖の脇に造られた天然の坂道を慎重に進んだ。
 地表から二十メートルほど降りた先にある崖下の空間は、思っていたよりもずっと広く平たい空間になっていて、そして何よりも明るかった。
 谷の上から見る限りでは、陰に覆い尽くされて暗闇しかなかったように思えたのに、目が慣れたからか、あるいはナピの強烈な太陽光がうまく入り込んでいるのか――場所によっては、地表ほどに視界が明瞭なのだ。
 崖下の広場は、すなわち大地に開いた亀裂の底面にあたる。もちろん、ふたつの巨大な壁――崖に挟まれた格好になるのだけれども、元々の谷間全体がとても大きいために、地の底とは思えないほど余裕のある空間に思えた。父さんを見る限り、大人が十数人横に並んで歩いても窮屈ではなさそうだった。
 そしてぼくたちは、例の『洞穴(どうけつ)』を、初めて発見したのだ。
 洞穴は、崖下の隅にその入口をぽっかりと開けていた。縦に細長い逆三角形の進入口は、ぼくたちふたりが並んで入れる程度の広さに見えた。
 入口を覆う闇のヴェールを前にして、ぼくと父さんは並び立った。
 ――これは、珍しいな。
 洞穴を見つめながら、父さんは満足げに呟いた。
 それに対して、紅い岩の壁に覆われた洞穴を眼前に、当時のぼくが初めて感じたのは、更なる冒険への探究心でも、その奥底の闇に対する恐怖でもなく、ある漠然とした不可解さだった。他にはひとつも見られないのに、崖下のその場所にだけ、ある種の唐突さをもってして、その洞穴が存在しているように思えたのだ。
 呆然と佇んでいるばかりのぼくに、父さんが入口のある一点を手で指しながら、説明してくれた。
 ――ここを、よく見てみるんだ。ふたつの大きな岩盤が、今は接合してひとつのように振る舞っているが……もっと遙か下の地殻変動の影響で、その隙間に穴が生まれたんだな。幸運なことに、こうして崖の底面に露出した。……どれほど経った地層だろうか。風化の影響もあるかもしれん。
 父さんの話は、当時のぼくには少し難しかったけどれも、半分は理解できたと思うので頷きかけると、既にぼくの見る表情は、洞穴の探検に浮き足立っているように思えた。
 もうお気づきかもしれないが、ぼくの父さんという人物は、こうした大きな地形生成物の実地探検をよく好んだ。少なくとも、六歳の息子に探索の一通りを教えて、装備を与えて、連れてきてしまうくらいには。
 とはいえ、そのぼくはぼくで、数ヶ月に一度の頻度で父さんと一緒に行う『探検』を、普段から楽しみにしていた。
 そして、こうした機会だけは――普段の沈着さから遠のいて、少しだけ子どもっぽい熱気を帯びて話す父さんの姿が、ぼくは好きだったのだ。

 崖下の意外な明るさから一転して、洞穴は底深い闇に満ちていた。
 自律発光ランタンのノズルを回して首に掛けて、足の踏み場を慎重に選びつつ、壁に手を付けながら、ぼくたちは未知の世界を着実に進んでいった。
 やがて判明した洞穴の正体は、決して長大なものではなかったけれども、当時のぼくにとってはやはり驚きに満ちた探検だった。
 進入口の辺りはかなり狭い。しかし数メートルまっすぐに進んでいくと、やや広い空間に到着する。その細長いエリアを更に奥に行けば、すぐに最深部に到着する、という全体像だった。全長は十五メートルほどだ。
 分岐や大穴などはない、ごく単純な構造の洞穴だった。
 しかしその最深部で、ぼくと父さんは、決定的な『あるもの』を発見したのだ。

 ぼくたちの生きる銀河系辺境の惑星・ナピの大地は、そのほぼ百%が酸化金属の紅色で満ちている。その原則は、ぼくたちが降り立った崖下の空間、および洞穴においても徹底されていた。
 しかし、ぼくたちの辿り着いた洞穴の最深部の壁面を構成する、あるひとつの岩盤は、その珍しい例外だったのだ。
 初め、訝しんた父さんがバッグから出した指向性ライトを浴びせた直後。
 ぼくたちはまず、その大きさに驚かされた。
 青色の帯が、そこにあった。
 天井の岩盤から地面近くにかけて、大人の胴体ほどの太さの直線を描き、美しい群青の色彩が、縦にまっすぐ走っていたのだ。
 ハンディ・ライトの輝きを浴びて、少しだけ発光しているようにさえ見えた。
 原則的に紅色の岩石しか存在しない、このナピという世界において、まったく異質の自然物だった。
 その姿は、まるで――。

 ――これは、『ナピの静脈』だな。
 『静脈』の姿がより明瞭に見えるように、出力を上げた自律発光ランタンを地面に置いてから。
 ぼくの隣に立つ父さんの巨体は、普段の落ち着き払ったそれよりも、やはり熱っぽさを上乗せした声音で、断言した。
 それからしばらくの間、父さんは沈黙した。
 まるで心を奪われてしまったかのように、洞穴の深部に突如現れた群青色の岩――『ナピの静脈』――その表面に、手のひらを乗せて、押し黙ったのだ。
 ランタンの灯りの中で。
 ふと見上げると、闇の中でうつむいた父さんの顔は。
 一見、平静としていて――しかしよく見ると。どこか苦しそうな面持ちを浮かべて、目を閉じていた。
 どれだけの時間そうしていたのかは、あまり思い出せない。
 やがて、傍らのぼくを見やると。
 父さんは、ぼくの本名を呼んで、告げた。
 ――この間、街の植物園でナズナの葉を見た時に、葉脈があっただろう? あれが、植物の血管だよ。ナピのような惑星でさえも、奥の方に潜ってみると、こうして血が流れているわけだな。

 ……そして、もちろん、俺たち人間にも。

 一度、言葉を止めてから。
 父さんは、洞穴の空気を深く吸った。
 あまりにも、深く、長い、呼吸だった。
 今から思えば、明らかに異常な瞬間だったのだと思う。
 ――話の続きを、息子に繰り出すか、否か。
 その瞬間、父さんが迷っているように感じられたのは、ぼくの思い込みだったのだろうか?
 今でさえも、この点については、よくわからないでいる。
 ともあれ、父さんは話すことを選んだのだ。
 十年以上が経っても、ぼくの記憶の底に不可解な感触を沈殿させている、一連の言葉を。

 ――いいか、ここからが、大切だ。一度しか、言わないぞ。
 その時のぼくは、洞穴の暗闇の中で、地に置いたランタンの灯りに半分だけ照らされた父さんの顔を、目を凝らして見つめてしまっていたように思う。
 その内部に現出した、あるひとつの変化を、あの時期の子どもらしい鋭敏さで、ぼくは確かに感じ取っていたからだ。

 ――俺たちの血は、いついかなる時さえも、『鎖』を含んでいる。

 そう、父さんは、断言した。
 ぼくがこの幼き日の光景をはっきりと覚えているのは、もちろんそれが心躍る遠出における唐突な『変転』であったという理由もあったけれども、他のどんな時よりも饒舌な父さんの姿を見たからでもあったと思う。
 どうか、勘違いしないで欲しい。ぼくの父さんという人物の普段は、一般的な科学の原理を信じ、合理的思考に基づいて行動を決定する、ありふれた現代の人物だった。
 あの時、崖下の洞穴の奥底で、『ナピの静脈』を前にして、独りごちたような声音でぼくに数奇な話を説いた父さんは、明らかに通常の状態ではなかったのだ。実際、父さんがこのような言葉をぼくに聞かせたことは、ぼくの記憶の限り、後にも先にもない。
 しかし、だからといって、ぼくにはその時の父さんが垣間見せた暗い姿が、悪意のない冗談や、その場の気分による突発的なものだとは、とても思えなかったのだ。
 今になってから、この光景を想起して理解できるのは、その奇妙かつ不可解な一連の話は、父さんが隠しがちな自らのバックボーンに抱えていた、ある種の神秘的信仰体系から、零れ落ちるように現出した残滓だったのであろう、ということだ。

 ――それは、地球から始まっているんだ。
 ――おれたち人類は、はるか遠い昔に、地球の大地の底から生まれ出た。その全身にまとわりついた『血の鎖』は、生まれたところと繋がって、ふたつを強く、とても強く、縛りつけている。
 ――それは計り知れないほどに強靱で、永遠に切れることのない力だ。そいつに対しては、人間如きの意思や智恵なんてものは、どうしようもなく無力なんだ。
 ――だから。
 ――故郷から離れて、このナピのような銀河の隅まで人間が散らばった今でさえも、おれたちがその肉体に抱える血の鎖たちは、おれたちの故郷である地球の大地へと、決して途切れることなく、繋がっている。

 ぼくはその時に抱いた、絶望に似た不安感を、とてもよく覚えている。
 もはや場違いに思えるほど、父さんの言葉と表情は、変貌していた。父さんは、ぼくにはまず見せなかった底深い真剣さを、その声と顔に存分に滲ませていた。
 そしてその真剣さの根底に、幼きぼくは、ひとつの暗い影を垣間見たのだ。
 闇の洞穴の奥底で、父さんは壁面の『ナピの静脈』を見つめながら、隣のぼくなどまるで構わないかのように、言葉を続けた。

 ――いいか。
 ――持って生まれた血の鎖からは、どれだけ遠く離れても、この銀河系を超えて、外宇宙に飛び出していってさえも。
 ――絶対に、逃れることはできないんだ。

 そして、大きく息をついて。
 打って変わったかのように、とても小さな、今すぐにでも、掠れて消えてしまいそうな声で。
 父さんは、繰り返した。

 ――逃れることは、できない。決して――。

 それからの、数呼吸分の、沈黙は。
 ぼくたちが共有した、もっとも暗く深い、地の底の沈黙だ。
 ……そして、まるで夢から覚めたかのように、父さんは唐突に動きだした。ぼくの小さな体を、あっさりと両手で抱きかかえたのだ。父さんの腕力をもってすれば、当時六歳のぼくの体重など問題にもならない。足が地面から離れて、重力から放り出されるような感覚。
 父さんの彫りの深い顔立ちが、ぼくの目の前に現れた。
 そしてようやく、ぼくは安心した。
 普段の朗らかで優しい笑みが、父さんの顔に戻っていたから。
 父さんは、ぼくを『ナピの静脈』の壁面までぐっと掲げると。
 ぼくの本名を呼んで。
 笑いながら、こう締めくくった。

 ――だから、自分の血の鎖を、大切にするんだぞ。

 

 ◆

 

 父さんとぼくは、とても仲のいい家族だった。

 ぼくは、父さんの存在がいつだって自慢だった。
 力持ちで、優しくて、頭が良くて、物知りで、街の外への探検に連れて行ってくれて、故郷や旅で知った遊びの数々を教えてくれて、おいしい料理を振る舞ってくれて、仕事が上手で、街中の誰からも頼られて、それらにすべて応えていた。
 なによりも。
 ぼくにとっては、たったひとりの家族だった。
 たったひとりでも、それで十分だった。
 父さんは、ぼくという人間における、『もう半分』だったのだと思う。
 大いなる道しるべであり、模範であり、希望でもあった。
 宇宙の辺境という、時に過酷なこの世界を生きるにおいてさえ。
 人がその生を生きていくのにおける、不安や恐怖や絶望などは、まるで存在しないようにさえ、幼いぼくには思えていたのだ。
 父さんという、もっとも身近な大人が、ぼくのそばに立っていて。
 いつでも、充たされて、強く生きていたから。
 大地に明瞭な影を投げかける、広々とした背。
 ぼくにとっての父さんは、ナピの紅い大地に大きな足跡を遺しながら歩き続ける、一体の大いなる巨人だったのだ。

 

 ◆

 

 その父さんは、崖下の探検のちょうど十年後に、人生にひどくつまずいて、頭をおかしくして、自ら命を絶った。

 

 ◆

 

 そして更に、父さんの死から三年が経った、今。
 ぼくは、この崖下の空間へと、はじめて戻ってきたのだ。
 
 
 

『惑星開発姉弟のクリスマス』(小説版) – 目次

プロローグ The Related – つながれたもの
(2017.8.28 更新)

第一章 The Exposed – さらされたもの
(2017.9.21 更新)

第二章 The Fallen – ふりつもったもの

第三章 The Grounded – おりたったもの

第四章 The Developed – あらわされたもの

エピローグ And, The Flowed Down – そして、こぼれおちたもの