ライヴシフト・トランスレイション

アサイド

「ライヴシフト・トランスレイション」

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ハンドメイド・オートマトン・メイカーのルーメンス・ライヴシフトは、時折、奇妙な夢幻と遭遇する。
――ひたすらに無秩序で、限りなく無意味で、根拠も示唆も答えもない、幻と。

短編・SFノベル。


【主な登場人物/人形】

ルーメンス・ライヴシフト – ハンドメイド・オートマトン・メイカー。
オリオン – ルーメンスが構築したオートマトン。
三つ編みの少女 – ティアサイド・オートマトン・ミュージアムの入場者。


ライヴシフト・トランスレイション


1.


 わかっているのだ、このオートマトンがいかなる仕打ちを受けるか。
 わかっているのだ、このオートマトンに待ち受ける宿命を、結末を。



 日が明ける。
 日が暮れる。
 それでも、べつに、なにもない。



 ルーメンス・ライヴシフトが、ひどく古びた暗渠のようなレンタル・ガレージの端で、がちゃがちゃと騒々しい音を鳴らしながら、自らのハンドメイド・オートマトンの白い腹を開き、その内部機構をいじくりまわしている。
 彼は、それが、とても好きなはずなのに。
 煤と油と培養触媒に穢れた、その面持ちは。
 何故か、嘆かわしいような、
 何故か、困っているような、
 何故か――己が人生における致命的な過ちを、それが言わば浮遊するガスであるにもかかわらず、耐熱グローブに包まれた両手で、掴み取ろうとして、当然のごとくの失敗を繰り返しているような――奇怪なる悲嘆に、満ち満ちていた。
 彼は、それが、とても好きなはずなのに。
 好きだったはず、なのに。



 朝。
 白の擬似漆喰の壁に囲まれた、ひとつの部屋。
 ささやかな夢の残滓は、義務と責務と空腹から芽生えた、小さな突風の中に消え去って。
 落葉すべしともがく両の目をしばたたき、全身の自律神経系のあまねく叫びを大いに聞き取りながら、自己増殖的炭水化物と合成蛋白とモリー由来の脂肪分のPFC等間隔的塊にプラスティッキィ・フォークを刺し、黙念と口腔に放り入れる、あるいはルーメンス・ライヴシフトは、その味覚を背にしながら束の間に夢想してしまう――あるいは、蝶に紡がれた赤い糸、あるいは死の恩寵、幽かに灯るランタン、美麗なる海底の燐光、力尽きた旅人と灰色の大地、宗教的血痕、そして――奇妙なオブジェクトたちは半ば自動的に彼の表層意識に湧き上がり――。
 頭を振る。
 なにもかも、自動人形とは無関係なヴィジョン。
 突拍子もない夢想を始めてしまう――最近は特に。ルーメンス自身にさえ、自らのその意識の動きが疑問であり、不愉快でもあった。
 スポア系食物繊維と微小生物粉砕ミネラルと神経機能補完製剤を溶かしこんだ液体を、一挙に喉に流し込む。
 息をつく。口をぬぐう。時計を見る。
 部屋の小さな窓から、乾いた陽光が差し込んでいた。サンライト・ベージュのカーテンが僅かに揺れる。
 再び時計を見る。
 今日が、とっくに始まっている。ルーメンスス・ライヴシフトは粛々と立ち上がる。



 ルーメンス・ライヴシフトはオートマトン構築が生来から好きで、やはりティアサイド・オートマトン・ミュージアムにて開催される月例展覧会への出品を目前として、自らのハンドメイド・オートマトンを構築し、それを予定通りの完成へと向かわせつつあった。そして彼はオートマトン構築が生来から好きで、日々の余暇を落とし込みレンタル・ガレージにおけるそれに独りで精を出している。そして彼はオートマトン構築が生来から好きだったが、それを生業に落とし込めるほどの自負と才覚にはどうやら恵まれなかった。
 それにしても。
 果たして、彼はオートマトン構築が生来から好きだったのだろうか。
 本当に、そう言えるのだろうか。


2.


 数日後。
 「特異点における人類文明のオートマトンへの屈服」なる古典的に過ぎるテーマの演説をがなりたてる狂人を尻目に、ルーメンス・ライヴシフトはその歩みを緩めない。世の中には色々な、本当に色々な奴がいる。ミュージアムの一般入場者の群れの誰もが、狂人を完全に無視する形で各々の目的地へと進みゆく。それでも絶叫じみた主張を止める気配もない狂人の方向から、ルーメンスは巷に出回るラセミ化アンフェタミンを主成分とするグレイス・キャンディのストロベリー臭を僅かに嗅いでいた。くだらない。
 目眩を催すほどに広大なホール――ティアサイド・オートマトン・ミュージアム会場のすべての豪奢と喧騒が、歩むルーメンスを包み込んでいた。企業ブースは掘削用巨大オートマトンの実働展示を遂行し、都合四基のクレーン先端が強烈なシグナル・ライトを放ちティアサイド・ホールの一角を七色に照らし出す。自動人形系の人気歌手ユニットが、人類には発声不可能な音程を時に混ぜながら一度歌い上げさえすれば、集合した観衆の嬌声じみた歓声を欲しいがままにする。小柄な宇宙探査用の最新型オートマトンは環境カプセル内に構築された真空無重力空間における探査作業のシミュレーションに没頭し、その成否を親子連れに見守られている。遠いオートマトン競技ブースからは格闘戦のリアルタイム・ヴィジョンが上空に拡大映写されており、実況者の決死じみた叫びとそれを凌駕する客どもの唸りが響き渡ってくる。大昔のフィクション内のオートマトン由来の奇矯な格好をした一般客がルーメンスの隣を平然と通り過ぎ、どこかの売り子がどこかのブースのチラシを声高に叫びながら配り歩き、売店脇では学童連中が熱烈な議論を繰り返していた。どこを見てもお祭り騒ぎ。
 すべてはくだらない。
 それでも。
 ルーメンス・ライヴシフトが喧騒と雑踏の何もかもを足早に通りすぎて、目的のブースへと向かう途で。
 ――ふう。
 と、小さな溜息を吐いた。
 ある存在と、出会ったから。
 『蔦をその体に巻いた子象』と、出会ったから。

 盛況を極めるティアサイド・オートマトン・ミュージアムにおいても、ホール内の余剰スペースは存在する。
 どのブースもコーナーも敷設されておらず、また一般客たちの通路にも必然的に成り得ない場所。そうした地点には概して手持ち無沙汰になった客がたむろしているものだが、そうした中でも誰にも支配されていない、ホールの奥まった隅の、照明さえ陰るひとつの小空間――そこに、
 ルーメンス・ライヴシフトは、一匹の子象を見ていた。
 初めて、歩みを止める。
 横目に――しかし鋭い眼光で、ホールの陰に黙然と屹立している、場違いな野生生物を、彼は凝視している。
 子象は、ルーメンスの幻の尖兵であった。
 全高はルーメンスと同程度。くすんだグレイの体躯は、いつも何故か細長い蔦たちに絡まれている。
 身動きひとつせず、自慢の鼻も揺らさずに、ただ一対の黒瞳が、ルーメンスをじっと凝視している――どこか、哀しげな色を湛えて。
 ルーメンスは、眉をひそめていた。
 ――この「子象」は比較的出現度の高いものだったが、まさかこの場所で、この瞬間に現れるとは。

 ルーメンス・ライヴシフトは、時折、「幻」と彼が呼称している存在と遭遇する。
 彼はそれらを、自らの無意識上における一種の外的発散現象であると冷徹に把握している。幻は数時間から数ヶ月に一度の頻度で彼の前に現出した。いつ始まったのかは覚えていない。幼児期あるいは乳児期からであろう。それらが己の脳神経系が意図せぬ原因により造成したものであり、他者には認識され得ない幻像だという事実は常として理解し客観視もしていた。
 経験的に導き出したこの生理現象の一般的な経過は、まずルーメンスの意識が奇妙な方向に逸脱し、現状とは無関係な光景や物体が脳裏に浮かび始める。この初期過程は省略されることもある。続いて視覚的ヴィジョン――この世にあるはずもない幻像が、彼の認識する視界内に、唐突に出現する。それを放っておけば範囲領域が自動的に増大し、聴覚ほか別感覚にも訴え始めるようになる。
 蔦を巻いた子象は、典型的な「尖兵」だった。ルーメンスの認知する幻のスタート地点のひとつ。
 ルーメンスはごく自然に考える――このまま子象の存在を放置するならば、徐々にその周囲に「仲間」が増えてゆくに違いない。
 いつのまにか、像の辺りには異様に背の高い紫色のひまわりが聳え、燕に似た鳥たちが空中を飛び交い、風車を頭に生やしたアザラシがあくびをすれば、正十七面体のサイコロたちが転がり、巨大でふくよかな体を持つ雀蜂が舞い踊って、遠いさざ波の音色とともに、勝手に跳ね回るブロックの玩具が地に音を立て、綺羅びやかな青い蝶が視界を遮り、ペイズリーじみた何らかの紋様が延々と続く長い布のようなものが、ついにはルーメンスの体をまさぐり始めて――。
 ルーメンス自身の、少なくはないと自負する経験を通して、この生理的現象に関して彼が得た、ひとつの解釈が存在する。
 これは、何の答えも示唆していない。
 いかなるものにも繋がっていない。
 理由も、意味も、意義もない。
 それでも幻たちは、彼の前に現れる。
 視覚的、聴覚的、時には他の感覚的作用を伴いながら。
 幻たちは、出現こそ唐突ではあるが、ルーメンス自身に何かしらを強要する類の現象ではなかったのは幸いと言えた。また彼はその性質を心得ていた。故に、この現象によって大きな損害を被った経験もない。

 ティアサイド・ホールの、照明の当たらない隅で。
 いつまでも身動きせず、彼をひたすら見つめている一体の獣に向けて。
 消えろ、と念ずる。
 ルーメンス・ライヴシフトの視覚領域内において、蔦を巻いた子象の存在がふと透明度なる要素を増大させる――次の一呼吸後には、完全に消滅していた。
 ティアサイド・ホールの、誰にも見留められない陰の空間は、本来あるべき姿を取り戻した。
 ルーメンスは背を向けて、再び歩き出している。執着は一切存在しない。幻との遭遇とその潰滅は彼の日常の一部であり言わば呼吸のようなものだ。何らかの「異変」ですらない。
 ただ、
 ――ルーメンスは、ミュージアムに溢れる現実の雑踏を掻き分け、現実の映像看板を無視し、現実の騒音を聞き流しつつ、黙々と歩を進めながら、あてどもなく考える、理由はわからない、
 ただ、
 頻度が、増している。


3.


 他のすべてはくだらない。
 ハンドメイド・オートマトンのみがこの世の真価だ。
 ルーメンス・ライヴシフトはそのような価値観に則ってこれからを生きてきたし、これまでも生きるのであろう。そして言うまでもなく、その間隙の現在を生きている。
 はずなのに。



 ミュージアムの端に構えられた月例展覧会のブースは、会場中央部ほどの喧騒や熱気は感じられない――当然。ブースを囲うダーク・ブルーの防弾防音パネルにより、まずまずの静寂を構築することに成功しているのである。
 ティアサイド・オートマトン・ミュージアム内で、月例展覧会が開かれるのは珍しいことでない。
 展覧会とは、数々の『人形屋』が自発的意思で集い、各々の構築したハンドメイド・オートマトンを一同に介して交流する機会であった。
 会場の入口で、歩みを止める。
 ルーメンス・ライヴシフトの表情は変わらない。
 ただ、目立たぬように――ゆっくりと、大きく、呼吸する。
 肺の中の空気を、入れ替える。
 そこには、
 何もかもの色彩に、何もかもの光輝があった。
 すべてが満ち溢れていて、同時にすべてが喪失している、とも言えた。
 ルーメンス・ライヴシフトは、このような類の――ハンドメイド・オートマトンの展示会に訪問した時に、ようやく、自らの生きるこの世界における一種の安定性と固着性を認識し、また信じられるようになるのだった。

『お久しぶりです、ライヴシフト様』
 横手に図々しく現出し、彼の隣に浮遊する立体グラフィクス・オブジェクトを、ルーメンス・ライヴシフトはちらりと一瞥した。それで十分だった。
 半透明に描画調整されたこのグラフィクスは、このブースにおいて、オートマトンや関連する情報提示機能を執り行う梟型の模擬人格ヴィジョンであった。名前は何だったかな――どうでもいい。
 グラフィクスが何かを言いかけたが、ルーメンスは直後に音声で自動トーク機能をオフに設定する。
 その両の眼窩を彩っているのが、ヒト用の人工眼に替わっていることに気が付いて、ルーメンスはつい微笑した――馬鹿馬鹿しい。純粋なスタンディング・グラフィクス・オブジェクトに、人工眼設定とは。
 悠々とした足取りで、ルーメンスは会場を歩み始めた。

 ブースを歩き回る。見て回る。
 一定の距離を置いて飾られるのは、無数のユニークなオートマトンたち。
 時に近づき、時に語りかけ、時に触れて、その美術的達成度や、職人芸なシステムや、バラエティ溢れるアイディアに心底から敬服する。他の人形屋たちと、構築技術や理論についての会話を交わす。
 楽しい時間を満喫していた。
 ルーメンス・ライヴシフトは、気付こうとさえしてない。
 ある、恐るべき、偶発的直感――奇妙な違和の分子とでも言うべきものが、彼の精神に、徐々に、絶え間のない累積を続けており――それを他ならぬ自らが避けている事実に、彼は気付こうとさえしていない。

 展覧会ブースの端に、がらんどうのスペースがあった。
 暗黒色の保護用マットだけが、床に敷かれている。
 まるで、そこにいたはずの、一体のオートマトンが消えてしまったようにも見えた。
 ルーメンス・ライヴシフトは、情報提示型の梟型グラフィクスの方を仰ぎもせずに、抑揚のない口調で訊く。
「フランツ兄妹は、やはり来ていないのか」
 梟は、プログラムされた通りに――明々たる声音で回答した。
『彼らは、「もう飽きてしまった」そうです。ウェブ上の情報は見ていないのですか?』
「見た。現地で確認したかった。……本当に、いないのか」
 嘆かわしいことです、と言わんばかりに、梟は頭をゆっくり振った。
『フランツ兄妹はインスタント・メッセージをひとつのみ残して、ネットワークにおける他のすべての記録を消し去りました――あの類稀なるマトンの設計図案も含めて。財産を注ぎ込んで築き上げた、ハンドメイド・オートマトンを巻き込んだ今までの生活に「飽きてしまった」ので、「遠い場所」に移住手続きを進めている、とのこと。当然、オートマトンも出展されていません』
「知っている」
 フランツ兄妹とは、長い付き合いだった。展示会ではしばしば交流していた。ひどい変わり者の二人組だったが、ルーメンスなどより、遥かに素晴らしい精緻極まるハンドメイド・オートマトンを精力的に創り出していた。
 ――飽きてしまった、か。
 飽きてしまったのなら、仕方ないか。
 ルーメンスは、空のスペースに背を向けて歩き出した。

 数分後。
 良く似た、がらんどうの展示スペースを前に、ルーメンスは再び立ち止まった。
「マーシュビッツも、いないのか」
 梟が、ほんの少しの間を置いてから、淡々とした語調で答えた。
『他の参加者の音声情報を集積し、その内容からわたしが推測した結果ですが――彼は一種の宗教的模索の旅へと出発されたそうです。彼もまた、すべてのネットワークにおける活動記録を消滅させています。オートマトンは出展されていません』
「誰しも、最期はひとりで死ぬもの、か」
 梟は答えなかった。当然だ。それを解釈する頭脳さえこいつには用意されていない。
 ハロン・マーシュビッツは、燃え盛る炎のような男だった。彼のオートマトンには、その熱気がありありと反映されていた。ルーメンスは冗談のような労力が割かれたであろう彼の操るギミックを思い出した。丹念に造られたオートマトンに宿るらしい『魂』なるものを、握り拳を震わせながら語る青年――あの熱意は、一体どこからやってきたのだろうか? そしてその情熱は、今は――。
 ルーメンスは、ふたたび歩き出した。

 三度、新たながらんどうのスペースを前に、ルーメンスが、
「ミス・ハピネスは」
 梟は、やや訝しむような語調で、
『あの方は、半年前にメイキングをやめていますが』
「……どう、書いたんだったか」
『はい?』
「最後のメッセージ。ハンドメイド・オートマトンに関連付けられた、最後の」
 長くはない検索期間を置いてから、梟が、言った。
『――「結局はつたない遊び、わたしは夢の断片、意味のない拠り所にすがっていただけだった」……ですか? 彼女が関連するネットワーク上に残したのは、その一センテンスだけです』
 ルーメンス・ライヴシフトは、反応しない。
 是も否もなく、沈黙している。
 そんな彼を見かねてか、梟が、
『ところで、ミス・ハピネスは、現在ルナ環境における在宅育児の講座を開かれているのです。かなり好評のようですよ。ネットワークから閲覧されますか?』
「しない」
 ミス・ハピネス。顔なじみだ。高らかなソプラノで大いにハンドメイド理論を語る古風な服装の婦人。特有のウェットと慈愛に溢れる設計で有名な人形屋だった。
 ルーメンスは、がらんどうのスペースから歩み去った。

 数十分後。
 あるオートマトンの真正面に、ルーメンス・ライヴシフトは立っていた。既に梟のグラフィクス・オブジェクトは消去している。彼の姿を通して、展覧会の数多くの照明光源が、同数の影たちを床に染みつけている。
 その自動人形も、真正面から、ルーメンスを見つめている。
 ルーメンス自身の手による、ハンドメイド・オートマトンだった。
 体長は一メートル八八センチ。基礎体重は百十三キログラム及び状況により上下動。フレームワーク・デザインと基軸ソフトウェアには汎用ライセンスのものをベースとしているが、それでも完成に半年が掛かった。ボディカラーは白が基調で、全体として丸っこい体型である。関節を省いた腕の先にはケット・シー機構による吸着を可能とした柔らかな球形の手があり、四基のキャタピラが繊細かつ着実な移動を可能とする。顔立ちは丸い二つのカメラ・レンズの「目」があるだけというシンプルなもので、「左目」の下に備えられたひとつのシグナル・ライトと首の微妙な動作のみで感情を示す。
 優しい魔人、といった風情がある。
 性格設定もそのようにしている。
 名を、オリオンという。
 ルーメンスは、自分のオートマトンが大好きだった。
「調子はどうだ」と、彼は語りかけた。
 ――ちか、ちか、と。
 オリオンの左目の下の光点が輝き、作り手であり主人でもあるルーメンスの存在を、白色のオートマトンは認めた。
 悪くは、ないようだな。
 ルーメンス・ライヴシフトは、見慣れたシグナルの示す意味を認識し、
 ふと、
 革靴の先の底を、床にターンさせて、
 月例展示会のすべてを、静かに、くるりと、見渡した。

 ティアサイド・ホールの隅に設置されたブース――ここには、大勢のオートマトンたちと、人形屋たちがいた。
 幸せな場所だった――数え切れるはずもないほどの、精密さや、美しさや、熱意や、アイデアや、自慢や、暖かみや、力や、愛情や、向こう見ずさや、簡単な間違いや、ひらめきが――その他の、沢山のものがあった。
 沢山の、思いがあった。
 だが、諦念はないようだった。
 諦念を抱く者など、必要ないようだった。

 言われるまでもなく。
 言われるまでもなく、ルーメンス・ライヴシフトは、他の誰よりも理解している――自分は、自分のオートマトンには、フランツ兄妹ほどの精巧さも、マーシュビッツほどの勢いも、ミス・ハピネスほどの愛情もない。残念なことに。
 そこが、ルーメンスの限界だった。

 彼は、自らの限界をよく理解していた。

 自分のオートマトンが大好きだった。
 だから、この場を立ち去ってしまいたかった。

4.


 ――突如、視界の外から飛び込んできた小さな二足歩行の体が、ルーメンスの白い自動人形・オリオンにすがりつくように、その丸い手を掴んだ。
「わぁーっ、この子、かわいい!」
 黒い防塵マットの上でぴょんぴょんと跳ねているのは、せいぜい背丈がオリオンの半分程度の少女だった。九、十歳ほどに見える。流行のエメラルド・グリーンのセーターに白い装飾ボタンが目立つ擬似デニム生地のキュロット。少女がジャンプする度にブロンドの三つ編みが揺れた。
 「かわいい、かわいい」とまるで呪いのように繰り返しながら、オリオンの大きな手を小さな手で取って、その無表情を見上げている。
 満面の笑みが、こぼれていた。
 オリオンは白いでっぷりした体躯を巧みに動かして、少女に、ちか、ちか、とシグナル・ライトでサインを送り、可動領域の大きくはない首を頷かせて感情を表現した。
 握手では物足りなくなったのか、少女は「んー……」と唸って、オリオンの硬質のボディに抱き付いた。後ろにまとめている前髪の残りがぴょんと跳ねる。
 しばらくオリオンを抱いていた後に、少女は首を巡らせて、ルーメンスを見た。
「この子、おじさんが造ったの?」
 ルーメンスは、意外な来訪者を前に、小さく頷いた。
「ああ」
「すごい! この子、かわいいね! 変わってる! お名前は!?」
「オリオン」
「かっこいい!」
 かつてはルーメンスもこの名称を気に入っていたが、今では少しだけ後悔していた――二ヶ月前に、オリオン座方面の観測基地で『干渉』が発生し、防宙領域が拡張されたという記事を目にしてから。自らのオートマトンに、血なまぐさいイメージなど付けたくはなかった。
 時事など退いて、少女はその名を好んだらしく、何度も、オリオン、オリオン、と白色のオートマトンに名前を告げている。何かを、語りかけている。
 オリオンは、左目の下のシグナル・ライトを点滅させて、少女に頷いていた。
 ――それにしても、子どもが単独で展示会に来るとは、珍しい。
 恐らく、ティアサイド・ミュージアムそのものの一般客だろう。児童用の学習ブースや企業展示を散策している内に月例展覧会に迷い込み、出会った風変わりなハンドメイド・オートマトンたちと触れ合っている――と、ルーメンスは推測した。
 もう一度、思い切りのハグをして、体を離しながら、三つ編みの少女は自動人形・オリオンに手のひらを振った。
「オリオン、いいんだよ、うん。ありがとう……じゃあね、またね!」
 そこで、手を止めて。
 少女はきょとんとした顔で、ルーメンスを仰いだ。
 自らも気づかぬままに、彼は笑い出していた。
 少女が、黙念と見つめている。
 ――どうして、笑うの、とでも言いたげに。
「話が、できるのか」
「えっ……」
「オリオンと、言葉で話ができるのか」
 少女は、うん、と楽しげに、無邪気に頷いて、
「もちろん、できるよ! おじさんも、もちろん、できるでしょ?」
 曖昧な微笑で、ルーメンスは返答した。
 ――オリオンに、一切の言語対話機能は備わっていない。制作者のルーメンスが基幹ソフトウェアの奥底まで弄っているのだから間違いない。音声発話は勿論のこと、「言いたいこと」を言語として処理する能力すら、オリオンは有していない。
 まさしく、人形遊びか。
 子どもらしい想像力に、つい笑ってしまったのだ。
 少女に、さよならを告げようとした。
 口をすぼめて、彼女は独り言を放っていた。
「あーあっ、だから『コントラスト・セブン』の演奏なんかより、ハンドメイドの展示会の方が楽しいと思うって言ったのになあ。ミックったら、どうしてああかなあ」
 ぶつぶつ言いながら、まるで踊るような歩調で、三つ編みの少女は近づいていった。
 オリオンの右隣のスペースに展示された、一体のオートマトンへと。
「ねえ、ペリィ?」
 その、青く背の低いオートマトンの顎と思しき箇所を、指先で撫でながら。
 ルーメンスの方に顔を向けて、少女はやや自慢気に、言い放った。
「この子はね、ハイペリオン。わたしは、ペリィって呼んでる。かわいいから」
 ――ぐっと背を伸ばして、悪戯っぽくウインクして。
「わたしと、同じクラスの鼻ったらしのミックと、ジュール先生が、一緒に、造ったの。わたしもね、造ったんだよ。すごいでしょう?」

 ルーメンス・ライヴシフトは、その細かい挙動を観察しながら、オリオンの隣に展示されている、青緑色のハンドメイド・オートマトンに歩み寄った。
 四足歩行の獣型が、ルーメンスの接近を認識してゆっくりと体を向け、尾を立てる――モチーフはトラかヒョウか。大型ネコ科動物のいかつい顔立ちが、ルーメンスに静かな凝視を注ぐ。
 カラーリングやデザインは野生の気配を思わせるが、頭部から尻尾の先に至るまでの、外装のメカニカル・コンポーネント的装飾からは相反する意匠が感じられた――ギア、バネ、ゼンマイ、ネジ、ナット、シャフト。すべてが、このオートマトンの動作には無関係で無意味な装飾だ。大昔の「機械仕掛け」への、ある種の憧憬。
 側面に、少女のものと思しきひどい筆致で、大きく「PERRy(ハート・マーク)」とスプレー・タギングされている。
「面白いな」と、ルーメンスは呟いた。
 でしょ、でしょ!と三つ編みの少女は高らかに同意する。笑顔が弾けて、瞳をきらきらと輝かせていた。
 実際のところルーメンスが面白いと感じたのは、彼がこのような型の汎用ライセンスの基礎構築セットを知らないという事実だった。
 すなわち、このオートマトン・ハイペリオンは、最初期の段階から構築した、純然たるオリジナル・ハンドメイドなのだ。
 少女は、ハイペリオンの隣で自らの腰に手を当てて、キャラクターの描かれたスニーカーをつま先立ちにした姿勢で、ルーメンスを見上げている。ふふん、と鼻を鳴らさんばかりだった。
 ルーメンスは、表情を崩さない。
 少女と同級生だけでこのオートマトンを造ったのであれば、紛うことなく彼女は天才的と断言できる。だが、どうやら真相は異なるようだ。彼女が言及した「ジュール先生」とやらが一枚噛んでいるのだろう――とルーメンスは推測した。ここまで精巧なシステムを一から構築するのは、大の大人でも困難を極める。オートマトン工学をかじった教育者なのだろう。恐らく算数か理科か情報工学担当の。
 周囲を軽く仰いで、少女に尋ねる。
「先生は、ここにはいないのか」
「いないよ。ミックと一緒に、あっちの『コントラスト・セブン』のコンサートに行ってる。展示会の方が楽しいって言ったのに! ひとりぼっちのペリィがかわいそうだよ! ねえ、ペリィ?」
 少女は、自分たちが構築した自動人形・ハイペリオンに向けて、いたわるような語調を用いながら、何らかの小声での対話を開始した。
 ルーメンスの見たところ、この青緑色のヒョウにも言語機能は備わっていないにもかかわらず、やはり少女は「人形遊び」を続けていた。

 ――それにしても、オリジナル・スタイルは、「先生」にも険しい課題だったらしい、とルーメンスは冷静に判じた。
 この教師と生徒の合作オートマトン・ハイペリオンの動作を認識した瞬間から、内部ソフトウェアにありがちな問題が生じているのは、即座に理解していた――擬似筋肉への電圧調整情報解釈プロセスが、明らかにおかしい。ルーメンス程度の人形屋でも、中を確認せずとも挙動を見れば即座に分かる段階の問題だった。
 一言で断ずれば、ハイペリオンの各種動作は”ぎこちない”。
 まるでからくり人形にサイズが微妙に合わないギアを嵌めこんで、無理に動かしているかのようだ。歩み寄ってくる時に、がくり、と上下に大きく揺れることすらある。ドライヴシフト・トランスレイションの非同期的問題。
 思わず――近年の構築技法において、まことしやかに囁かれる『流行』――電圧調整プロセスに作為的なラグを混じらせることで、「オートマトンの非自然物的実在」を表現するとされる、テクニックなどと呼ばれるものが、ルーメンスの意識に浮上してしまう。
 反射的に、内心で首を横に振った――「不自然」にして、一体どうするというのだ。
 人形屋の常識中の常識――オートマトンの擬似筋肉は、外的発散における中核器官である。故に基礎行動段階に準じた精緻な流動性こそが最重要課題なのであって、その電荷モジュレーションに人為的な不具合を与えるなど、言語道断だ。挙動の美しさを損ねるばかりか、総体的な故障のリスクすら生じうる。
 馬鹿馬鹿しい――ルーメンスはこの『流行』とされる、一部の人形屋の態度に、否定的態度を有していた。
 そもそも、この緑色のネコ科動物型人形・ハイペリオンの不調は単なる調整ミスであって、流行に乗っかった意図的な構築でさえないのだが――。
 そう信じていたのが、間違いだった。

 まるで、心を読まれたかのようだった。
「このペリィの『がくがくする』のはねえ、みんなやってるんだよ」
 と、三つ編みの少女は、無邪気そのものの瞳で、ルーメンスを見つめて。
 続けた。
「……ええっとね、ジュール先生はね、こうした「不自然さ」が、これからのお人形さんの主流になるだろうって、いっつも言ってる。なんだっけ――えっと」
 ここで言葉を切って、誰かを真似るように低い声音で、
「『オートマトンは結局、『本物』には絶対になりえないから、実物再現を目指す時代は終わりつつあり、これからの人形屋は、不自然な動作を、意図的に構築するようになっていく』――んだって。わたしには、よくわからないけど――」
 少女は、ハイペリオンの躯体に歩み寄って、再びその顎を撫でながら。
 告げた。
「わたしは、ペリィが『ぎこちない動き』をするの、好きだなあ」
 妄念じみた、喧騒の残響が僅かにこだまする、ホールの床の上で。
 少女は、ハイペリオンの背を抱きしめた。もう二度と離さないかのように。
「だから」
 その、ほんの瞬く瞬間。
 ルーメンス・ライヴシフトは垣間見たような気がした――少女の瞳に湛えられた、オートマトンへと注がれる、強い慈愛の光を。
 ルーメンスが、いつか忘れてしまった、光を。
「だから、わたしが、もしこれから、ひとりでお人形さんを造ることがあったら、こうしようって、思う」
 ルーメンス・ライヴシフトと、名も知らぬ少女。
 ふたりは。
 この社会においては限りなく無関係で、それでいて、ふたりはどちらも、この展示会に来たハンドメイド・オートマトン・メイカーだ。
 輝かしいまでの静寂の光が、ふたりの間を、貫いていた。
「……そうか」
 少女の言葉は、その声音も表情も、やはり無邪気そのものだった。
 それが、劇毒だった。
「――わたしはね、『お人形さんがぎくしゃくする』のに、ずっと見慣れていたから、おじさんのかわいいオリオンを見て、すごく不思議だなあって思ったの」
 少女は、うふふっ、と笑って、ルーメンスが展示した、ルーメンスのオートマトン――白く丸い体のオリオンを振り仰いで。
「だって……オリオン、すごく動きがスムーズなんだもん。スムーズすぎるよ! ああいうの、わたし、あんまり見たことなくて。だから、”変わってるなあ”って思った」
 ルーメンスは。
 そうか、と繰り返して、小さく頷くと。
 ブロンドの三つ編みの少女にささやかな感謝と別れを告げて、再びブースの中央回廊へと、歩き出した。
 その歩調は確固としたようで、実に頼りない。
 ――まるで、肉体の中にあったすべての臓器と肉が、まるごと抜け去ってしまったかのように。

 目を凝らす必要すらなかった。
 再度、月例展示会に並ぶオートマトンたちを観察すれば。
 ルーメンスが意識にすまいと無意識に閉じ込めていた、ある事実が浮き彫りになる。
 多かれ、少なかれ。
 ――擬似筋肉の調整プロセスに『ぎこちなさ』を意図的に与えられているオートマトンは、今回の展示会の半数を超えていた。

 ルーメンス・ライヴシフトは思う。
 彼らは――かつての人形屋仲間たちは――どうしただろうか。
 遊び好きの富豪、人形構築の天才・フランツ兄妹は、『流行ってるから、面白そうだから』という理由で、安直に『ぎこちなさ』を導入しただろう。そしてやはり成功する。迷いなどせずに。
 若き修行僧を思わせるハロン・マーシュビッツは、自らの自動人形の『魂』なるものに奇怪な手法で詰問し、その返答に応じて導入の可否を速やかに決定していただろう。やはり、そこに迷いはない。
 旧時代的ドレスの婦人ミス・ハピネスであったら。是も非もない。絶対に取り入れない。彼女はある種の古風なオートマトン像の信奉者であり実行者でもあった。彼女も、迷いすらしないだろう。
 彼らには、それぞれの信念があった。
 彼らには、迷いがなかった。
 では、ルーメンスは。
 ルーメンスは。

 梟のナビゲーション・グラフィクスをコールし、人形屋の展示会からの外出およびオートマトンの展示終了に関する同意書に音声シグナルで応えて、ルーメンス・ライヴシフトはティアサイド・ホールを後にした。
 速やかな足取りだった。


5.


 わかっているのだ、このオートマトンがいかなる仕打ちを受けるか。
 わかっているのだ、このオートマトンに待ち受ける宿命を、結末を。



 日が明ける。
 日が暮れる。
 それでも、べつに、なにもない。



 ルーメンス・ライヴシフトが、ひどく古びた暗渠のようなレンタル・ガレージの端で、がちゃがちゃと騒々しい音を鳴らしながら、自らのハンドメイド・オートマトンの白い腹を開き、その内部機構をいじくりまわしている。
 彼は、それが、とても好きなはずなのに。
 煤と油と培養触媒に穢れた、その面持ちは。
 何故か、嘆かわしいような、
 何故か、困っているような、
 何故か――己が人生における致命的な過ちを、それが言わば浮遊するガスであるにもかかわらず、耐熱グローブに包まれた両手で、掴み取ろうとして、当然のごとくの失敗を繰り返しているような――奇怪なる悲嘆に、満ち満ちていた。
 彼は、それが、とても好きなはずなのに。
 好きだったはず、なのに。

 朝。
 白の擬似漆喰の壁に囲まれた、ひとつの部屋。
 サンライト・ベージュのカーテンが揺らぎ、乾いた陽光が、ダイニング・テーブルの椅子に腰掛けたルーメンス・ライヴシフトの姿を照らし出す。
 ルーメンス・ライヴシフトは動かない。
 不自然に斜めに傾いだ姿勢、生気の失せた表情、意思の光など欠片もない瞳。
 テーブルの上には、食べかけの合成食物と食器と雑用品とその残骸が散らばっている。床も同様だった。外の他の部屋も同様。
 だから、どうしたというのだ。
 ライヴシフトは、幸せの最中にあった。
 ライヴシフトは、無制の幻たちに取り囲まれていた。
 彼は、既にそれを解き放っていた。封は、とても単純で脆いものだった。破るのは、信じがたいほどに簡単だった。
 幻たち――それらは、視覚的実像に限りなく近い意識的虚像であり、それらは壁なき壁に反響する音であり、また優しく語りかける声でもあった。それらは現実を超えた現実的イデアであると同瞬間に、非現実的な異世界からこの世に現出した産物たちでもあった。それらは食せば味があり、嗅げば香りがあり、触れれば温度や高度や痛みを知覚できるものだった。それは、ライブシフトの認知する全空間を支配し、全時間を嚥下していた。
 ルーメンス・ライヴシフトの周囲にて。
 幻たちは、耳元に、囁いた――玉露の声音で。
 ――もう、いいんだよ。
 と。
 幻たちは、煌めき、瞬き、分離して、密度を無際限に増大させていった。
 幻たちは、不定形の触肢たちを優しく動かして――ライヴシフトを抱擁した。
 幻たちは、直にライヴシフトへと触れて、その皮膚を遠慮無くまさぐり、肉体の何もかもを、秩序めいた混沌たる内部へと取り込もうとする。組み込もうとする。
 もはや、ライヴシフトは抵抗などしない。
 一切の動きも声も表情もなく、すべてを幻に委ねて、埋もれてゆく。
 埋没して、ゆく。
 ルーメンス・ライヴシフトは、動かない。動くはずもない。
 彼は、幸せの最中にあるのだから。
 ふと。
 無限にさえ思える幻たちの間隙、その僅かな現実の視覚領域において――床の隅に捨てられた、ひとつの耐熱性グローブを彼は認識する。
 そのグローブは、ルーメンス・ライヴシフトという人間が、ハンドメイド・オートマトン構築において長年愛用したものだった。暗い焦痕と、落とせない穢れと、無数の細かい傷と、彼の感情に覆われていた、それを。
 彼は、まったく認識できなかった。
 夢想の大海が、知覚と記憶のすべてを、跡形もなく拭い去っていった。



 朝。
 白の擬似漆喰の壁に囲まれた、ひとつの部屋。
 サンライト・ベージュのカーテンが揺らぎ、登りつつある陽光が、ダイニング・テーブルの椅子に腰掛けた男の姿を照らし出している。



 ルーメンス・ライヴシフトは、いま、幻たちとともにある。


【完】

冬の朝の、ベンチから見える東の空は、美しくて、

 冬の朝の、ベンチから見える東の空は、美しくて、

sky

 腕時計を見る。午前六時半まであと三分と二十八秒。
 だから、どうってわけでもないけれど。

「案ちゃん。そんな、うつむいていないで~、見てみなさい、あのお空を。とっっっっっっっっっっても、きれいだわ~」
 と、先輩はいかにも彼女らしい、芝居がかった口調で、わたしに言った。
 ぼろっちいスティール製のベンチに、わたしたちふたりは並んで腰掛けている。
 膝に乗せて手に取っている本から、ほんの少しだけ視線を外して左側を見る。そこには目をきらきらさせて空を仰ぐ先輩がいて、彼女が座っている奥の辺りには、この地点が工場と最寄りの駅を結ぶバス停である事実とその運行情報を示す看板が、心もとなく立っていた。
 魔法を使ったかのように静かな街外れの一角だった。ひとつのベンチと、薄いプラスティックの簡素な屋根が覆うだけの、この小さなバス停は、工場の敷地からも若干離れた道沿いにある。道路の周囲一帯は、休耕期の畑とか稲田とか用水路とかが覆っていて、さらにその周りに、ぽつぽつと新しめのプレハブ住宅が建っている、そんな区域だった。百メートルほど遠くに見える、誰も通っていない交差点のさなかで、信号機のシグナルだけが赤から青に替わった。
 一月初旬の早朝だから当然なのだけれど、とんでもなく肌寒い。
 厚手のコートにマフラーにニット帽に耳あてと、防寒対策はしているつもりだけれども、それでも顔面の皮膚にしつこく張り付くような、遠慮のない冷たさを感じてやまない。この辺りは雪はあまり降らない。降っている地域の寒さは絶対こんなもんじゃないんだから、比較的贅沢な悩みだとも思ったりする。
 なにか動いているので、ふとそちらを見やると、隣の先輩はサンドウィッチを両手に持って、もぐもぐと食べていたので、わたしはぎょっとした。
 ハムカツとレタスのサンドだった。三枚セットの包装。パッケージを見ても、間違いなく先ほどまでわたしたちがいた工場で作ったものだった。歩ける近所には出荷先のコンビニはないので、工場の製造物の破損品あたりを何らかの方法でそのまま持ち出してきたのだろう。
 わたしが驚いたのは、湯気が見えることだった。先輩が持っているサンドウィッチは、電子レンジに入れたばかりのようにほかほかなのだ。どうして。
 つい尋ねると、「ヒートパック。非常時の発熱剤、だ~わ~」と、先輩は当然のように応えた。
 先輩はわたしより三つ上で、かなり個性的なパーソナリティを有していた。サンドウィッチの片面に指示された正確な重さの具材を盛り付けることが主な担務で、そのすさまじいまでの正確な仕事ぶりから、英語を主要語とするらしい国から来日してきたおばちゃんグループからは、「サンドウィッチ・ウィッチ」と呼ばれていた。
 まあ、魔女という表現は、たしかに似合うかもしれない――と、わたしもこっそり思っていたりする。言動も外観も、先輩はなにか魔性じみたものをまとっていた。気付いたら、いつのまにかほかほかのサンドウィッチを手に取って食べてるなんて、まさに魔女の所業じゃないか。いま着ている私服も、濃紺をベースにフリルやらリボンやらコサージュやらの装飾がごちゃごちゃとついた、わたしにはよくわからない代物だった。
 工場の夜間勤務ではめずらしい同年代の、かつ日本人の女性同士だったというのもあるだろうけれども、性格的にも経歴的にも能力的にも対象的なわたしたちは、なぜか割とうまがあって、業務上がりの時間が合う時には、こうして、この工場前のバス停のベンチに並んで、何気ない会話をしていたりする。
 わたしたちはこれから同じバスで同じ駅に行くが、そこからは行き先が異なる。先輩はローカル線で自宅に、わたしは別路線で東京方面の大学に向かう。
「おいしい、おいしいわ~」
 という率直極まる感想をつぶやきながら、先輩は何の憂慮もなしにサンドを食べ続けている。咀嚼して、嚥下している。お腹が空いているのはわかるけれど、かなりはしたない食べっぷりだった。
 わたしは、そんな先輩をちらりと見やってから、再び本に視線を戻した。
 先輩は、自らの過去のことをあまり語りたがらなかった。上京して、しばらく何らかの業務に従事していたけれど、二年ほど前にこの地元に帰ってきた、というのはいつか聞いたことがある。たぶんいかがわしい水商売だったのではないか、などとわたしは邪推したりしている。なんというか、ナリがそんな感じだもの。
「おいしかった。ごちそうさま~」
 と、先輩が言った次の一呼吸後には、ふたたびその提案の刃先がわたしに向けられた。
「ねえ、やっぱりお空が、お空がとってもきれいだわ~。とっっってもきれい。見てみなさいってば、案ちゃん。その真っ白なご本ばかりじゃなくって~」
 先輩はいつもこんな感じで、芝居っぽい口調で話す。仕事が終わってオフになると、さらにその方向性は強まる。無駄に感情のこもった、もったいぶったような口ぶり。
「お日様が昇る前のお空って、ああ、なんて美しいのかしらあ~」
 疲れのためだろう。わたしは、なんだか本の言葉がうまく頭に入らなくなってきたので。
 顔を上げて、先輩にならうことにした。

 東の空を、ふたりで眺めた。
 座っているベンチが東向きで、周囲には視界を遮るものもないので、よく見えた。
 逆に言えば、他に見るものがなかった。
「……ええ、綺麗ですね」
 と、わたしは、そっけなく同意したけれど。
 実のところ、見れば見るほどに、飲みそうになる息を止めていたのだ。

 ――空は、儚げで、幻のように美しかった。

 陽が登ろうとしている地平線近くの夢想のようなオレンジからはじまり、ほんの少しだけ登るに従って、神秘的なまでに輝かしいイエローへと移り変わって、中空のスカイ・ブルーへのグラディエーションを、ゆるやかに、かつ一切の無駄なく形作っている。
 雲のない、清廉な空だった。
 ぼんやりと空を見渡していると、 中ほどに月が登っていた。
 目を凝らす。
 確かに、それは月だった。
 今にもかき消えてしまいそうな、ほんの切れ端のような、左側だけの月だ。
 下弦。
 明日には、新月になって、本当に消えてしまうのだろうな。
「お空が、きれいだわ~。今朝は、いつにもましてきれいだわ~」
 先輩は、今にも歌い出しそうだった。
 芝居じみた彼女の語りに、そうですね、とは思うものの、あらためてそれを独自にわたしが表現する必要もないかな、と判断し、手に取っている本にふたたび視線を戻した。
 びっしりと紙面に書かれた、細めの明朝体の文字列が、目を滑る。
 ……ああ、講義を終えて帰ったら、熱いシャワーでも浴びたいな。明日はお休みだから、レポートの課題をスケジュール通りに片付けないと。それにしても、構造主義って、まるで工場の加熱セクションのパンを焼くトースターみたい……。
 わたしは、自分でもよくわからない、うすぼんやりとした思考で、そんなことを辿っていた。
 だから、なのだろうか。
 放たれた先輩の言葉が、異様に明瞭に、印象的に聞こえた。

「まるで、この世界が美しいものだって、馬鹿げた錯覚しちゃうくらい、だ~わ~」

 奇妙な穏やかさを秘めた沈黙が、しばらく続いた。
 それを破ったのがわたしであることに、我ながら驚いた。
「ええ」
 本に視線を留めたまま、わたしは、つい応えてしまった。
「それはやっぱり、馬鹿げた錯覚だと思いますよ。先輩」
「うふふっ」
 わたしの唐突な発言に一切動じず、むしろそれを待っていたかのように、先輩は楽しげに笑った。
「錯覚のひとつやふたつも、しちゃうわよ~、もう一回、見てみなさいって、案ちゃん。お空、きれいだもん」
 わたしは無言で、両手に取っていた本を、膝においた。表紙も閉じる。
 白くて厚い、そっけないデザインの書物だった。厚紙づくりの表紙の上部に、『二十世紀における哲学の系譜』という題が書かれている。割と重い。リュックサックに入れて持ち込んで、工場のアルバイトの休憩時間に読んでいる大学のテキストだった。いつも疲れるので、気付いたら読まずに眠ってしまうこともしばしばなのだけれど。
 それにしても、今日はなんだか、いつにも増して疲れが溜まっている。
「えっと」
 疲労のせいか、わたしはなにかしらの、自分の中の衝動を抑えきれなくなっていた。
「……失礼かもしれませんが、言いたいことがあります。先輩」
「な~に~?」
 わたしを見る先輩の笑顔は、無邪気だった。
 ここには。
 ここには、わたしたちふたりと、バス停と、田園地帯と、朝の空気と、空だけがあった。
 自動車の音ひとつ、聞こえない。
「まわりくどく、なりますよ」
 と、一言告げた後に、わたしは、話し始めた。
 冬の朝の空の、淡いブルーを、目を凝らして、睨みながら。
「……わたしって、先輩ももちろん知ってると思いますけど、ドジで、これまでも、まあ、さんざんでした。だからなのかな、と思います。人間が生きてる目的とか、理由とか、いわゆるテロスとか、レーゾンデートルとか、そういうのを、知りたかったんです。こんなわたしが、この世界に存在している意義が、手がかりくらいは掴めるのかもしれないと、そう思って。哲学や社会心理学を選考したのは、きっと人の精神の、心の何かを、理解する手がかりが、そこにあるかもしれない、と、そう判断した上での結論なんです。わたしは、そういう学問をもっとこころざして、考えなくちゃいけないと思うし、考えたいとも思っています。……えっと」
 ふう、と一息ついてから。
「だから、この空って、だめなんです」
 先輩の顔を、つい、ちらりと見やる。
 先輩は、喜怒哀楽の一切を消して、わたしの言葉に耳を傾けている。
 だから、わたしは続けることに決めた。
「……例えば、そうですね。夜勤上がりに、朝の空を見て綺麗と感じるだとか、温かいサンドウィッチを食べておいしいと感じるだとか、わかります。わかりますけれど、それってとても本能的な情動なんだとも、思います。悪い表現かもですけれど、きっと、それだけで生きていては、獣と一緒です。わたしたちは」
 先輩は、上着に包まれた腕をゆっくり組むと。
 「ん~……」と、可愛らしく唸ったあとに、首を傾げて、
 わたしに向けて、微笑んだ。
「よく、わかんないなあ、案ちゃん。だって、わたしたちだってケモノでしょ。頭の悪くなった猿だわ~。ちょうど申年だし。ところで年賀状来た?」
「……そうは、思いたくないです。年賀状は毎年一通も来ません」
「でもさあ、案ちゃんは、なんでそのふたつが、違うって思うのかしら~?」
 首を傾げて、両の目を細めて、微笑みを浮かべながら、先輩はわたしにたずねた。
 皮肉など、これっぽっちもない笑みだった。
「自分の生きてる目的――テロスだっけ? とかを、知ってもさあ~、お腹すいた時に、サンドウィッチ食べてもさ、どっちも、脳みそがさあ~、嬉しくなるじゃない? いっしょ、じゃないかしら?」
 先輩は、両腕をベンチに回して、背もたれに寄りかかって、東の空を見上げた。
「わたし、ばかだから、案ちゃんの話は、たぶん三分の一もわかってないけどね。わたしはね、これからも幸せに生きていたいなあ、って思うんだ。案ちゃんも、そうでしょ?」
 その声音は、清浄だった。
「……えっと」
 これは、功利主義等で挙げられる快の本質とか、いわゆる欲求構造とかの話なのだろうか。
 ああ。
 ――わたしは、どうして今、先輩とこんな話をしているのだろう、と思い始めていた。
 なんというか、無性に自分が恥ずかしく、どこかに隠れてしまいたい、と感じた。
 でも、蒸し返したのは自分だな、などとも思う。
 ひどく、疲れている。脳神経系の判断能力が鈍っているんだ。
 思考がまとまらない。
 言い訳でもないくせに、言い訳じみた口調になっていたと思う。
「そうですね、そうです。ええと……ただ、あまり、そう思いたくはないってことなんです、わたしは。だから、空が綺麗だ、と思っても、そのまま綺麗だなんて、素直に思いたくは、ないんです」
 なんだか、気まずい沈黙が始まった。
 奇妙な緊張が張り巡らされていたと感じたのが、わたしの一方的な思い込みなのかどうか、それすらもよくわからない。
 わたしの視線は、膝の上の哲学書でも冬の空でも先輩でもなく、視界にうつる田園とコンクリート製の農業用水路の連なりを、さまよっていた。先輩の方を見られなかったが、彼女はきっと空を眺めているのだろう。
 先輩の声が、ふと、放り投げたように、
「素直に、思えばいいのに」
 と、言った。
 わたしは、肩を上げて、ううん、と伸びをしてから。
「……どこか、諦めきれないんでしょうね」
 と、応えた。
 そしてふたたび、語り始めていた。
「毎晩」
 地面を見ながら。
 『二十世紀における哲学の系譜』の重みを感じながら。
「毎晩、裁断機にパンをひたすら入れて、入れ続けていて、そうしてわたし、なんとか生きてます。学費とか、交通費とか、食費とか、他にもいろいろ……。このコートは、奮発して買ったものです。……あるいは、寒さをしのいで、ご飯を食べて、眠る場所がありさえすれば、人って生きられます。そして、たまに綺麗なものを見たり、手に入れたりする。それだけでも、いいのかもしれません。そっちのほうが、もしかしたら自然な生き方のかたち、なのかも。でも、それでも、わたしは、まだ考えたいことが、考えなくちゃいけないことが、あるって思っています。だから今日も、このまま駅から大学に行って、講義を受けてきます。勉強します。それは……きっと、諦めきれないからなんです」
 風のない朝だった。
 わたしたちはこれから同じバスで同じ駅に行くが、そこからは行き先が異なる。
「そうだねえ」
 思わず、わたしは先輩の顔を見つめてしまった。
 あまりにも、その声音が優しかったから。
 屈託のない、やわらかな微笑みを浮かべて、彼女は言った。
「案ちゃんは、頑張ってるんだねえ」
 先輩の、何気ない言葉に驚いたのか、
 少しだけ、自分の声が引きつったような気がした。
「い、いいえ、頑張ってるんじゃあないんです。……ただ、本当に、わたしは諦めきれなくて、それで」
 ――掴みきれなかったものを、掴むのに致命的に失敗してしまった『何か』を、哀れにも、再び捕まえようとしていて、わたしは、しぶとくもがいている、それだけなんです――。
 それは、声には出せなくて、私は中途半端なところで言葉を弱めて、終わらせてしまった。
 視線を感じる。
 先輩は、こんなわたしの様子を眺めていたけれども、沈黙の理由を悟ったのか、あのやわらかな笑みを浮かべたまま、ふたたび空を仰いだ。
 そういえば、彼女の顔色も、疲労の影が根深いな――と、なぜかその時にわたしは思った。
 当然だ、と思う。
 先輩は、周りに語られるような魔女などではないのだ。強い集中を要する作業に半日も身を挺した、ひとりの二十六歳の生身の人間に、ほかならなかった。
 思わず。
 地平線の上に、わたしは視線を向ける。
 オレンジとイエローとブルーのグラディエーションがあった。
 冬の朝の、ベンチから見える東の空は、美しくて、

 ――それが、とにかく悔しくて、わたしは、少しだけ泣きそうになってしまった。

<おわり>

その美しく壮大なクリスマス・ツリーは、このとても、とても冷える夜の中で

その美しく壮大なクリスマス・ツリーは、このとても、とても冷える夜の中で

062

 

 ――夜闇の中。モール前の公園の中央に、美しく壮大なクリスマス・ツリーが、高く高く、そびえ立っている。光芒に惹かれ集まるのは、つがいの蛾たち。
 君と僕は、そのつがいのひとつ。

    ◆

 君は、小さな歓声を漏らした。
 吐息の白が、夜の影に消えてゆくのを、僕は確かに見とめた。

 そのクリスマス・ツリーは、「美しく壮大なもの」と口々に呼ばれる有名なものだそうだけれど、僕は直感的にあまりそう感じなかったので、少し残念に思ったりもした。
 形状は円錐型で、もみの木を模したもの。床からの高さは二十七メートル四一センチ、最大幅は直径九メートル五七センチ。
 ほぼ全面を覆うリダクト・ライト群が、今も波打つように、派手すぎない程度に、その光の色彩を様々に変容させてゆき――見る者たちを決して飽きさせない。
 ツリーのリダクト・ライトには、僕も目を見張るものがあった。近づくほどにわかった。とにかく数が多く高密度で、その発光動作パターンも繊細なのだ。
 実は、完全にある指数関数に沿う形で、このツリーの設計者たちはその数と密度を一年ごとに上昇させているらしい。
 リダクト・ライトという新式照明とその活用分野における近年の進歩は著しく、本来の技術発展から鑑みれば、もっと総数を増加させて密度を高めることも可能だという。しかし、あえてその関数に合わせた上昇速度で、このツリーに飾られる毎年のライトの数は決定される。
 何はともあれ、僕たちの眼前にあるこのクリスマス・ツリーは、年をめぐるごとに、どんどん装飾のリダクト・ライトが微細になり、美しくなるのだ。
 この辺りについての説明は、実はツリーの足元の目立たないパネルに、より簡潔でわかりやすい形で、しかしその長期的技術観測実験としてのニュアンスを削ぐような記述で掲載されていたりする。
 その説明には書かれていないのだが――野暮だから、なのだろうか――このクリスマス・ツリーの設計は、認知心理学や行動論も応用している。一般的・平均的な人間という観測主体が、どのようなツリーを認識すれば「美しく壮大だ」ともっとも本能的に感じるか、という課題を目指して。ツリー全体の適切なサイズはどの程度なのか、リダクト・ライトの色彩とその組み合わせと総体的な変色パターンは。もちろん、観測者の周辺環境との相乗効果も見逃してはならない要素だ。このプロジェクトに毎年心血を捧げる制作者たちによって、それらは徹底的に計算され、設計されたものなのだそうだ。
 ……という僕の話も、実は全部受け売りで、ツリー制作者たちへのロングインタビュー記事に書かれているのを、おととい読んだばかりだったりする。

「綺麗だね」
 と、君はその丸い瞳で、隣の僕を上目遣いに、囁くように言った。ベージュ色の厚手のマフラーに、口元までを埋めている。
 とても冷える夜だった。
 僕は、君にその動作があえて見えるように、だが不自然にはならない程度に、やや重々しく頷きながら、
 それはそうだろうな、などと冷静に思った。
 この美しく壮大なクリスマス・ツリーは、一般的・平均的とされる人間がその視覚を含む感覚器官によって受け入れる情報を、「綺麗だね」と感じるように最適化された、その果ての存在なのだから。
 ともあれ、幸運だった。
 ――豊富な知識を有していて、また頭がとても切れて、そして考える余裕のある人たちが、あたたかい義務感と、乾いた正義感と、他の何かしらの動機からか、
 君が、「綺麗だね」、と感じるように、うまく作ってくれたのだから。
 彼ら・彼女らの目論見は、たった今、君の頭蓋骨の中で、成功が確約されつつあるなあ、などと、僕は思ったりもした。
 風のない夜闇に、光芒の波がおどる。
 ツリーの周囲は、僕たちみたいな連中が大勢いた。
 家族連れもいたが、基本的には恋人のペアたちだった。衣装や細かい外観はもちろん異なるけれど、各々の行動パターンは、まるでライン上の工業製品のように同じだった。綺羅びやかで雄大なクリスマス・ツリーを前にして、その素晴らしさを、彼ら・彼女らは静かに褒め合い、身を寄せ合うのだった。それに並行する形で、各人がパートナーに抱える愛情なる概念を、隠喩的だったり詩的だったりする表現で囁いたり、あるいは肉体的行為に還元したりもしていた。

 君の横顔は、美しく壮大なクリスマス・ツリーを、陶然とした表情で眺めていた。
 来た甲斐があった。
 その一方で、僕は、お腹が空いてきたなあ、などと呑気なことを思ったりもしていた。なにか、温かいものが食べたい。昼食は多くはなかったから、そう、『グレインズ』の厚いピザとかがいいな。
 ――と、その時、ツリー設計者のインタビューの内容が、再び脳裏に蘇った。
 ああ、そうだった。
 僕らの前にそびえ立っているのは、単なる、「美しく壮大だと感じさせるために設計されたクリスマス・ツリー」ではないんだ。
 近年の、麗しい技術進歩のひとつ。
 ツリーに飾り付けられたリダクト・ライトの集合体は、その総体的変色パターンは、視覚的認識を行った観測者たちの深層心理に溶け込んで、一種の「ガイダンス」を実行する。
 その目的は、隣接するショッピング・モールの店舗群における購買活動を促すことだった。
 この構造設計までがツリーの設計者たちの仕事であり、ある側面においては、もっとも重要なこのツリーの使命でもあった。
 『グレインズ・プレインズ』の温かいピザが食べたい――などと思っている、自分自身に少しだけ、どきりとした。
 ちょうど、その軽食チェーン店は、モールの中ほどに店を構えていたから。
 無意識下の欲求誘導。
 今では別に、珍しいことでも、ないけれど。

    ◆

 ――とても信じられないことだが、かつて、人々の自由意志や選択こそがこの世界の根底であると信じられた時代があったらしい。
 言うまでもないけれど、現代においては、社会の滞りない循環と維持こそがその最大目的だ。その原則において科学技術が支える産業市場が成立し、商品たちがそれを媒介して、それを消費するために僕たちの肉体や生命が存在する。
 そして、最後にその下に置かれているのが、どうやら僕たちに付属しているらしい、意識とか意欲とか、あるいは魂とかとも呼ばれたりする、神経器官の機能――どうでもいい代物だったりする。

    ◆

 ふと、君の横顔をふたたび見やる。
 君は、クリスマス・ツリーの、ひどく幻想的な、計算し尽くされた色彩の波を見つめている。変わらない笑顔で。
 ――僕たちは、幸せに生きてさえいればいいんだよ。
 結局のところ、精神なんて、本能に支えられた、操作も誘導も切断も易しく可能な、大したものじゃあ、ないんだから。
 その観点から鑑みれば――君と僕の前に立つこの輝かしいクリスマス・ツリーは、まさに時代の寵児と言えた。衆目を集め、またその感嘆と畏敬の視線にも相応しい、この世界の象徴と呼べる存在なのかもしれない。

 そんな、まさにどうでもいいことをなぞっていた僕の思考を、意地悪に覗きこむように。
 君は、僕の上着の袖口を掴んで、
「――なにか、食べようか? 中に行って、買い物する?」
 と、告げた。
 いつもの、屈託のない、やわらかな微笑みを浮かべながら。
 僕は、なるべく君に優しい態度として認知されるように、ゆっくりとうなずいて。
 ――モールの外殻部に位置する店の、『パープル・クランチ・アンド・ドーナツ』のセットかな、などと、考えを巡らせた。あれは、君の好物だからね。それとも君は、『サーキュレイション』で、温かいスープでも摂りたいのだろうか。僕は『グレインズ』がいいけれど。
 食べた後は、新しい外套を一緒に買ったりしようか。ちょっと奮発しても、いいよね。
 今日は、とても冷える夜だから。

    ◆

 ――夜闇の中。モール前の公園の中央に、美しく壮大なクリスマス・ツリーが、高く高く、そびえ立っている。光芒に惹かれ集まるのは、つがいの蛾たち。
 君と僕は、そのつがいのひとつ。

    ◆

 二十時を告げる、巧妙なデジタル合成の鐘の音とともに。
 ふと、細やかな雪が、ツリーの周囲一体に、降りだした。
 今日は、クリスマス・イヴの夜で、この公園は北半球に位置していて、クリスマス・シーズンは真冬にあたるから、今は冬の夜だから。
 僕たちは、ふたたび、クリスマス・ツリーを仰ぐ。
 君が僕に向けて、何かを言って、微笑んで、
 僕も、何かを告げて、笑みを返した。

 接触した物体を過度には濡らさず、
 しかし本能的に違和感のない程度に調整された、雪の舞う夜の中で、

 ――君と僕は、ささやかなくちづけを交わした。

 今夜は、とても冷える夜だから。
 この血と肉のすべてに滲み渡って、もう二度と、永遠に失せることのないような、とても、とても冷える夜だから。

 【完】

雨のあと

 雨のあと

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 カウルは、尖塔の天使だった。

 尖塔の天使は、「尖塔」と呼ばれる超巨大建造物の内部で活動し、その労務を全うするために生きる人々の総称だった。ある一面において説明すれば、天使たちは尖塔で産まれ尖塔で死ぬ。また、ある一面においては、全人口の約三割と定められた社会的必要人員とされており、また、ある一面においては、社会システムに貢献する「神聖なる」人々であって、また、ある一面においては、受精卵選別以前の無作為抽出の落とし子だった。
 つまり、カウルは尖塔の天使である必要など、最初からなかったのだ。
 けれど、彼は実際、現在、その総人口が六億に及ぶとされる、尖塔の天使のひとりだった。
 その末端だった。

    ◆

 あまりにも突然の声だったので、驚いた。
「なに、見てるんだ」
 と、声を放ったブロンが、カウルの背後に立っていた。

 月明かりが、圧縮睡眠室の小さな窓から差し込む、静かな夜だった。

 窓の前に立つカウルが、ブロンに振り向いた。
 おぼろげな月影が、硬い床の上で踊った。
 脊椎接続された神経調整用ケーブルが、カウルの尾骨のあたりから、床にだらりと垂れている。動物の尾のように。ブロンも、他の天使も同様だ。
 尖塔の天使たちは、この圧縮睡眠室においては、衣服の何もかもを着けない。その必要がなかったからだ。室内環境は適正に保たれているし、不要な菌の一匹すら決して通しはしない。

 あくまで落ちついた声音で、ブロンが、繰り返した。
「カウル、なにを見ている?」
 ブロンは、カウルより生育期間が一年長い。体格は痩せっぽちのカウルよりもずっとがっちりとしていて、その表情筋は「なにか外に面白いことでもあるのか?」と告げていた。
 夜闇の中で、ブロンの両の眼は、奇妙な熱気を残しているように見えた。
 数夜に一夜、ある仲間内で楽しまれる「賭け事」の帰りのようだった。なにを研究するでもない「研究室」なる尖塔のあるエリアで、そうした行為がなされている。すべての天使の上腕に着けられた労務自立支援機たちが、賭けのような禁止行為を見逃すはずがないのだけれど、なぜか何も警告しないのも、カウルは知っている。
 賭けの対象は、参加者の「想像上のコイン」である。
 前述のとおり、そもそもギャンブルなど天使のルールでは厳禁だった。徹底的な使用制限のあるクレジットは使用できるはずもないし、労務に使う道具などを担当エリア外に持ち込むことは尖塔中のセンサー群が決して許しはしない。代わりに髪やら爪やら血液やらの天使の肉体の一部を扱うにしても、尖塔は肌の表皮一片すら無駄な存在を許さず、すべて浄化水槽と熱風で洗浄してしまうから、結局頭の中の、皆の想像の中のコインを賭けるしかないのだという。
 カウルは、そうした天使の賭け事が好きではなかった。妄想のチップを肴にスリルを享受して、それが一体、どうなるというのか。なにを生むというのか。
 ブロンが、ずい、と歩み出て、カウルの隣に立った。
 カウルの触覚と嗅覚が、ブロンの存在をわずかに感じ取った。
 カウルは、他人の体温があまり好きではなかった。

 横に並んだ、カウルとブロンの視界。
 圧縮睡眠室の小さな複合ガラス窓の奥は、
 星の見えない、本物の夜空と、満月に近いおぼろげな月と。
 「駅街」の、尖塔よりもずっと低い建築物の群れが、地平線まで、ひたすらに存在していた。
 地をうごめくように、それぞれの建築物固有の光芒を、わずかに漏らして。
 カウルは、「駅街」を、そこに生きる人々についてを、よく知らない。すなわちそれは、尖塔の天使の大半が知らないことを意味している。
 ただ、尖塔の天使の無作為抽出に漏れた、「祝福されざる人々」が、その生を営んでいる、と教えられている。
 「不要な感情と、欲と憎悪に穢れた、悲しき街」なのだという。

「僕は、」
 カウルは、最小限の言葉を扱うために、一度言葉を区切った。無用な言葉を人に使うのは嫌いだったし、そう教育されてもいるから。
「僕は、あれを見ている」
 右腕をゆっくりと持ち上げて、広大な街の中の、ある一点を指差した。
 カウルの上腕に装着された労務自立支援機――人間のそれらなどよりも圧倒的に優れた各種センサー群が、装着した労務支援対象者の、何もかもを見て、知って、記録して、考えているのだという――が、月光に映えて、僅かにきらめいた。
「――ん、」
 ブロンが、カウルの指さす方向と「駅街」の光景を交互に睨んでから、じっと街を見つめて、
「……あれか? あそこの、白茶けた建物の左にある、道路の上の、赤っぽい、絵。えっと、ロード・アート・グラフ、ってんだっけか?」
 カウルが、ブロンに振り向きもせずに、ゆっくりとうなずいた。
 ――女だな、若い女だ、好みじゃあないがね、
 と、ブロンがつぶやいている間も。
 カウルは、じっと、それを見つめている。

 カウルの視線の、遥かに先にある、終着点――広大な「駅街」の隅の裏路地に存在していたのは、抽象的なタッチで描かれた、ひとりの人物のロード・グラフだった。
 隣に立つフランチャイズ・ホテルの、過剰なまでの照明の一端が、その小さくはないグラフィティを照らし出していた。
 黒いアスファルトの上に、描かれていた。

 ブロンの言うとおり、それは「若い女の絵」だった。
 ただ、少女という表現が、より正確であろう。
 古風じみた純白のローブを、その薄い身に纏っている。揺れる鎖のネックレスの蒼い宝石の光輝が、整った顔立ちを照らし出していた。栗毛色の癖っ毛が空気の流れに揺れる。そして周囲を彩る、橙色の刺々しい炎。
 死を暗示するような火炎の渦に飲まれながら、
 絵の中の少女は儚げな表情で、ここではないどこかを見つめている。

 カウルが知るはずもないが、この一枚の絵の制作に使用されたのは、七色の溶剤型アクリル絵具と、スプレーガンと、ささやかな技巧だった。
 特に社会的価値があるわけでもない、「駅街」においても風紀取り締まりの対象となる、簡潔に言えば「くだらない落書き」だった。描いた人物の正体や、その絵に込められた意図なども、もちろんカウルが知る由もない。
 昨晩に、窓の外の「駅街」を眺めていると、見つけた。
 ただ、それだけだった。

 二十呼吸ほどの、沈黙ののち。
 カウルが、
「きれい、だと思う」
 と、言い放った。

 隣に立つブロンの、やや訝しげな視線を気にもせずに、
「僕も、ああいうのを、いつか、描いてみたいと、思う」

 ――言葉は、最小限に控えようと思っていたのに。
 そう教育されているのに。
 止まらなくなってしまっていた。
 話しながら、カウル自身が信じられないでいた。

「……こんな感情は、生まれて初めてなんだ。あれを見て、描いてみたいと思った。僕は、尖塔の天使で、だから、何も、何も知らないけれど、どうやって描いたのかも、描いた道具についても、それをどう学ぶのかも、さっぱりわからない、けれど、あの絵のようなものを、描いてみたいと、思ったんだ。どうして、僕が自分がそう思うのかもわからない。でも、いつか、ああいった絵を、描いてみたい」

 闇と静寂の支配する、圧縮睡眠室。
 おぼろげな月が陰影を生む、ふたりの天使の神経調整用ケーブル。
 小さな複合遮断ガラス窓の先の、遥か下界の街の片隅の、一枚の少女のロード・グラフ。
「……よく、わかんねぇや、俺には。そういうのは」
 と、はにかみながら、ブロンが言った。
 ――だがまあ、いつか描けたら、教えてくれや。できれば、もっと可愛らしくて、よくわからん服飾品とかのないハダカで、あともっと、本能に訴えるモノならいいなあ。へへ。
 ブロンは話しながら、眠たげになった目をしばたたいて、自らの圧縮睡眠チェンバーへと去っていった。彼の尾骨あたりから伸びる灰色の神経調整用ケーブルが、ずるずると床を這い、影の中に溶けていく。
 その間も、ずっと、ずっと、カウルは、「駅街」の隅にある、ひとつのアート・グラフを、見つめている。
 おぼろげな月が、圧縮睡眠室をかすかに照らしていた。

    ◆

 それから、ある程度の時間が過ぎて、
 カウルは、ある程度の努力を積み重ねて、
 その間に、ある程度のことを、学んだ。

 そして、一度、激しい雨が降って、止んだ。

    ◆

 その夜は、果てなく暗かった。

 圧縮睡眠室の小さな窓辺に、ひとりの、痩せっぽちの尖塔の天使の姿があった。

 天使は。
 カウルは。
 例のロード・アート・グラフィティを、
 いや、
 それがかつてあった、「駅街」の単なる裏路地の一角を、
 眼を見開いて、じっと、見つめている。
 
 かたかた、と。
 その裸身が細かく揺らいでいることに、彼自身も気がついてはいまい。

 かつてから、
 うっすらとは、わかっていたのだ。
 わかっていた。

 結局、
 ロード・アート・グラフィッカーは、「駅街」のありふれたうるわしい生育環境と、専門のテクニカル教育と、同等もしくはそれ以上の技巧を有する仲間や友人たちと、尖塔の天使よりもはるかに縮小された労務に囲まれた、単なる「神聖ならざる、駅街の一般人」にすぎず、
 しかし、ただ、カウルは、
 カウルは、
 尖塔の天使で、
 これからも、
 死ぬまで、
 ずっと、
 だから、

 ひとりの尖塔の天使が、高い高い尖塔の中ほどにある、暗い圧縮睡眠室のひとつの小さな窓から、「駅街」の裏路地の、何もないアスファルトの路面を、じっと、見つめている。

 カウルの視線は、かつてのそれとは、一線を画していた。

    ◆

 この断片的な物語の、なにもかもの、間。
 ――その一機の労務自立支援機は、自らの労務支援対象者である尖塔の天使、すなわちカウルを、常に、観察していた。彼の右上腕において、持ちうるセンサーの、すべてを惜しみなく使用して。
 実に、つまらなかった。
 支援機は、とっくに結論を出している。
 ありふれた話だ。
 カウルが羅患した一種の精神的異状は、彼の年齢が比較的幼い故に発生しうる、これもまた、実に普遍的な状況なのだった。カテゴリーとしては、「問題」ですらない。
 対策は、簡単だった。
 ただ、待っていればいい。
 いずれカウルは、一機の労務支援対象者は、彼が精神的異状を催したもっとも大きな一因と思しきロード・グラフの、委細の形状を、かならず忘却するであろう。雨に消えたロード・グラフの周囲にあった炎の棘の先は、一体何本だったろうか? 少女の首元のアクセサリーをつなげているのは、紐、あるいは鎖だったか? さらにもうしばらくすれば、カウルはその色彩すら忘れてゆく。少女をとりまく炎の渦の色は、あざやかな赤だったろうか、もっと青みがかっていたか、あるいは黄色に近かったか? いずれ時が経てば、いずれカウルは、少女の顔を忘れるであろう。その表情は微笑んでいたか、無表情だったか、あるいは怒っていたのか――? そうして、何もかもを忘れてしまうまでに、さほど時間は掛かるまい。そこに少女のロード・グラフがあったことすら、いずれカウルは忘却する。材料は揃っていた。既に機体は演算を終えている。ロード・グラフの存在が、カウルの大脳の表層記憶処理体から失われるまでに、212日プラスマイナス93日、確度100パーセント。
 絵を描こう、などという無益な意欲も、やがて同様に消滅する。
 終わりない尖塔の労務の中で、義務の数々と圧縮睡眠と無意識下の神経調整の中で、この尖塔の大いなる渦の中で、すべては忘却の彼方へと沈んでいく。いずれカウルは、より熟練された、より従順かつ能率的な天使に羽化するであろう。かならず。
 労務自立支援機の思考は、リアルタイムに解釈プロセスが連動する「尖塔」の中央演算システムのそれでもあった。
 この類の事例には、「尖塔」の永い歴史においても、ことかかない。
 平常運行。
 持ちうるセンサーの、すべてを惜しみなく使用して。
 労務自立支援機は、自らに割り振られた対象である、ひとりの天使を、観察している。

    ◆

 その夜は、果てなく暗かった。

 ひとりの尖塔の天使が、高い高い尖塔の中ほどにある、暗い圧縮睡眠室のひとつの小さな窓から、「駅街」の裏路地の、何もない、何もないアスファルトの路面を、じっと、見つめている。

 【完】

「ある夜、テーブルの上で、のねずみと盃を交わす」

ある夜、テーブルの上で、のねずみと盃を交わす

 

「孤独に乾杯」
「孤高に乾杯」

 私と、のねずみは、盃を交わした。
 とはいっても、私とやつとでは、あまりにも背丈が違いすぎる。
 私は人間で、やつはのねずみなのだ。
 「盃を交わした」というのは、まあ、両者の思いの中の概念というか、言葉限りというか、そういう感じの表現である。

 ともあれ、私と、のねずみは、盃を交わした。
 この部屋の中で。
 同じテーブルに隣り合って。

 

 表面加工されたテーブルの上ののねずみが、鼻先をくんくんとさせている先には、揺れる紅い液体の粒があった。
 やつが、かっさらってきた一粒だ。
 やつが言うには、街の古びたワインセラーの奥底から、だそうだ。これもどこかからちょうだいしてきた吸水性のペーパーに染み込ませて持ってきたらしく、のねずみによれば、「香りでうまそうなのを選びに選んだ」という。
 まったく、のねずみのくせに。上等だなあ。

 対する、私の方はというと。
 ――さきほど電子レンジで一分間温めたばかりの、百二十ミリリットル程度の、安っぽいコップに注がれた白い液体だ。それが他ならぬ、私の盃だ。
 ホットの低脂肪牛乳である。
 眠る前に、私はこれを飲むのが好きだった。

 私と、私の隣にいるのねずみ。
 のねずみのやつは、なんだか知らないけど上等品と思しきワイン。
 私は、一リットル百十円の低脂肪牛乳。
 ともあれ。
 盃は、盃で。
 今夜は盃を交わす夜で。
 私と、のねずみのやつは、もう乾杯を終えていたのだ。

 それぞれの液体に、それぞれが口を付けてゆく。
 ワインの雫の大部分を一気に飲み込んだのねずみのやつは、とてもことばにしきれないような、満足の吐息を漏らした。
 隣の私は、ちびちびと、摂氏四十度くらいに温めた低脂肪牛乳を飲んでいる。

 ちょっとだけ、のねずみのいる辺りから、アルコールの匂いがただよったような気がした。思い過ごしだろうか。いくらなんでも、粒が小さすぎるからなあ。
 のねずみのやつと違って、私はあまりアルコールは得意じゃないんだ。あたりまえだけど、お酒はアルコールの味がするし、酩酊の感覚も決して好きとは言えなかったりして、単でそれが好みの問題で済めばいいのだけれども、エチルアルコールが一種のコミュニケーションツールとなりえるような場においては、それはそれで色々と困ったりするのだ。
 のねずみのやつは、私のその辺りの微妙な感情をよく知っているので、あえて言及とかはしない。
 気が利くやつでもあるので、全然違う話題を出して、私が感じ始めていた距離感を埋めたりしてくれる。

 新しいワインの粒から口を離して、のねずみは私に言った。
 はっきりとした、声音で。

「孤高はすばらしいものだな」
 私は、答えた。
「孤独は悲しいものだよ」

 ――いつのまに、どこから持ってきたのだろうか。
 のねずみのやつは、スナック菓子の欠片と思しき白っぽい塊をかじって、口を丸くしてもぐもぐと咀嚼している。
 ごくりと飲み込んでから、私に告げた。

「悲しいと思うから、悲しいんだ」

 ――その意見は、いくらなんでも乱暴で大雑把だなあ、と思ったので。
 私は、実に安っぽい、実際安価だったコップをテーブルに置くと、のねずみに言い返した。
「悲しいものは、悲しいよ」
「どこが」
 と、のねずみが私にたずねる。

 私は、少しの間考えてから。
「……ええと。そうだねえ、孤独は……」
 ……よくまとまらない。
 もう少しだけ、考えてから。
「……孤独そのものも悲しいのだけれど、私はね。自分からね、どうしても、それが中々『剥がれないもの』なんだって思う。私の場合は、その原則を思い出すと、悲しい。自分は、ひとりなんだって思う。これからも、ずっとひとりなんだって。些細な、外から見れば、どうでもいいことなんだろうけど、時折ね、『私は孤独じゃないのかも』って、勘違いすることがあるんだよ。勘違いなんだけどね。勘違いだから、それがただのばかげた勘違いだったことに気づいて、やっぱり自分は孤独なんだって分かって。その孤独は、どこかでくっついちゃったガムのように私にべったりついていて。私からずっと剥がれないことを思い知る時もあったりして、特にそれがね、とても悲しい。私は、いつまでも、根本的にひとりなんだなあ、って思う。ええっと……」
 ええっと。
 ――そういうことを、話せばよかったのだろうか、などと、今更私は思い出す。
 ふと、自分が思うがままにしゃべりまくっていたことに気づいて、やや恥ずかしくなってきて、テーブルの上ののねずみの方を見た。
 のねずみは、また新しく絞ったワインの雫に、口元をくっつけていた。少しずつ啜っているらしい。音はしないが、口のあたりをせわしなく動かしているのが見えた。
 ――私の話、聞いていたのかなあ。

 やや冷めはじめた低脂肪牛乳を、私がなんとはなしに飲んでいると。
 まったく、
 その予兆など一切なく、
 私の隣、テーブルの上で、小さいのねずみのやつは。
 私に向けて、ゆっくりと、言い放ったのだ。

「それでも」
 口元を、頭部全体を大きくかしげて。
 私を。
 のねずみは、私を見上げて。
 その二つの瞳で、まっすぐ私を見つめて。
「ひとりは、すばらしいものだ」

 

 ――ふと、時間が、揺れたようだった。
 次の瞬間には、のねずみは、私の前からいなくなっていた。
 人語を話すのねずみそのものはもちろんのこと、やつが啜っていたワインの紅い一滴も、それを染み込ませてきたというペーパーも、かじっていたはずのスナックの欠片も、何もかもが、私のテーブルの上からは消えていて、
 まるで、のねずみなんて最初から存在しなかったようで、

 

 ……低脂肪牛乳の残滓を帯びた、交わされた盃などではない、安っぽいコップを持つ、私だけが。
 私ひとりだけが。
 この部屋に、残されていた。

 (終)

演算回路な与太話

 演算回路な与太話

 意義が全然ないので誰も触れないような辺境のネットワークに接続して、古い古いデータベースを手繰っていると。
 たまに、中々に興味深い与太話が見えてくる。
 その中の一つに突き当たった。
 「人間の時代の人間は、今よりずっと弱かった」。
 そんなはずはないだろうが、とジグは演算回路の中で反射的に思う。
 安直極まりない暗号障壁をずかずかと突破しながら、古い古いデータベースの残った断片から、ある程度の記述がまとまったものを端から抽出して、ジグの思考でも直接認識可能なコードに転換していく。
 いわく。
 「昔は昔、人間の時代がロボットの時代に差し替わる頃に、いくらなんでもロボットが強くなりすぎて手に負えなくなってしまったので、人間は自分たちを強くして対応しようとした」。
 面白い与太話もあったもんだなあ、とジグは思ってから、それからチェアの上で首の関節部をぐるりと一周させる。それが彼の癖だった。
 もうちょっと読んでみよう、と探索の電子の手を巡らせるも、ネットワークのどでかい断層に辿り着いてしまった。この辺のノード周りはあらかた調べつくしてしまったし、別のポイントまで移動するための経路を再構築するのが癪だ。時間がかかる。
 辺境のネットワークへの接続を止める。
 骨董品そのものの変換コードを古めかしい変換専用集積回路と比較的新しい変換コードどもで数珠繋ぎにして自作した、妙ちきりんな形状の合成コードを、ジグは腹側部のプラグから引っこ抜く。堅牢性保持のために各パーツの接続部はガムテープでぐるぐる巻かれている。
 古い古い与太話の欠片から、ジグは考え直してみる。
 えっと、つまり、こんな感じか。
 ――はるか昔、人間の時代。人間は恐ろしく貧弱だったから、強いロボットを作って、その力に頼ろうとした。だが、いつまでも黙々と人間に付き従うロボット連中ではなかった。ある瞬間、自律回路が火を吹いた! ロボットの反乱である。弱い人間たちはひどい返り討ちにあって、生息数をがつがつと減らしていった。
 そんな彼らが辿り着いたのが、「自分で自分を強くして」、ロボットの優れた能力に対抗しようという手段だ。どんな手法なのかは知らん。だがその試みも結局は何らかの限界にぶつかって、人間は完膚なきまでにロボットに打ち負けた。
 そして今、この世に生きるアリスを含む人間は、「強くなった人間」の末裔なのだ――。
 ……うさんくさいんだよなあ、と思う。
 まず、ロボットの思考能力が反乱を企てるほどに発達していたのなら、おいおい飼い主の人間は「反抗したい気持ち」の辺りを全然制御下に置いていなかったのかよ、となる。一、二体、あるいは百、二百体は制御の見落としがあったと考えてみよう。だがロボットの全員が片っ端から、ある日突然始まった『反乱』に加担するだろうか? そもそも人間に従属することを目的とされた人間の時代に、ロボットが人間への対抗心なんて起こすものか? 人間がロボットより強い今だって、そんなことないぞ。
 廃墟の地下の隅にある部屋。天井まで積もったガラクタどもの隙間の、奥の奥底に隠されたプラグから合成コードを抜いて、ジグはリュックサックの専用ポケットにまとめていく。そろそろ支度の時間だ、と体内時計を鑑みながら、ジグは思う。
 中々に興味深い与太話で、一見筋が通っているように思える。こういうのがあるから古代のネットワーク探索はやめられない。
 だが、それだけの与太話だ。

開幕前

開幕前

 

 テクノロジーの進歩は、驚くべきほどの利便性をもたらしたっけ。
 こんなところでも、恩恵にあずかることができるんだもの。

 はい完成。
 楽屋に備え付けられた縦長の箱――汎用の外観翻案機は、可能な限りの速度において、中に入った私の姿を、まさしく頭から爪先までの衣装やら装飾やらから、メイクから髪のセットまでを――徹底的に、ネットワークに保存された情報をもとに、変貌させていった。
 姿見を前にして、私はふと「紳士の頬笑み」を作ってみる。
 うん、いつも通り、完璧だ。
 私はすっかり、「いかれた紳士」という、コントのためのキャラクターの姿になっていた。何もかもがちぐはぐな丈の、滑稽な色合いの服装。ぼけた緑色のレンズの片眼鏡、大昔の音楽家のようなヘアスタイルの上に、冗談のようにちっぽけなハット。
 トレードマークである紅い扇を、ぱちん、ぱちん、と左手の指だけで開閉させる。うん、いつもと同じ既成品だ。

 ――私たちがやりたいのって、こういうのだったっけ?

 

 私は、コンビの片割れだった。
 私とランちゃんは、いつも一緒。
 大学の演劇学科に入りたての頃に、偶然席が前と後ろで、すぐに意気投合したんだっけ。最初に盛り上がったのは、何の話題だっけかな。さっきまで行われていた演劇理論の授業の内容を、「通俗的に過ぎる」とか言って、笑ったんだっけ――。

 そんなことを、ぼんやり考えていると。
 他ならぬ私の相方、ランちゃんが楽屋に来た。
 普段通り、きらびやかそのものの自前の衣装を身にまとって。

 お互い、結構歳はとったけれど、今でもランちゃんはかなりの美人だ。対して私は太っちょだし、まあきれいではない。それでも、「外観翻案プロトコルの更新がほとんど必要ないんですよ~」とか、笑い話のネタにしたりすること程度はできる。

 

 ランちゃんは、
 ライト・コーティングされた艶やかな床を、すた、すた、と、せわしいように歩きながら。
 横目に、ちらり、と見る。
 先駆けて「いかれた紳士」の姿になっていた私を。
 視線が重なる。
 だから、私は、「紳士の頬笑み」で応じた。
 ――どうかな、完璧かなあ?
 ランちゃんは、無表情で通り過ぎる。
 そして、私は、「紳士の頬笑み」を止める。
 ――もちろん、完璧だよね。
 それが、いつもの光景だった。

 

 ランちゃんは楽屋を横切って、放るように鞄を置くと、無言でまっすぐ、外観翻案機へと入っていった。
 私はあまり好きな色合いではない、長いスカーフの端が、翻案機の中に消えた彼女を追って、ゆらりとたなびいた。

 かつての、困窮時代に。
 ランちゃんが、「一点だけの贅沢だからね」と愛用していた紫の柄のスカーフは、とっくの昔に棄てられて、はるかに高級なものと取り替えられて、それも今の彼女を埋めるように取り巻く、きらびやかな服飾品たちのひとつに過ぎなくなっていた。
 私は、あの紫のスカーフ、好きだったんだけどな。

 ランちゃんが入っている外観翻案機のささやかな音が、楽屋に響きわたった。
 ふと、彼女がテーブルに置いた鞄を見やる。
 また新しいブランドにしたんだね。
 お金は儲かったなあ、と思う。
 私たちの「紳士とオートマトン」の芸がヒットしてから、衣食住の何もかもが、あっという間に、劇的に改善されたんだっけ。
 ――それまでは、二人ではいくらなんでも手狭すぎるようなアパートの一室に無理やり住み込んで、それでも家賃の滞納で追い出されそうになるのもしばしばで。
 一体何度、大家さんに平手をついたっけ?
 大家さんが実は寛大なおじいさんで、とても助かったなあ。
 今はもう、この世にいないけれど。

 

 楽屋の壁の一面に投影されていた環境映像の端の時計が、視界に入った。
 午後六時三十七分、と表示されている。
 私は、思わず口の端を歪めて、笑った。

 二人で一生懸命、考え過ぎるほどに考えて、練習も繰り返した前衛演劇が、全然鳴かず飛ばずで。舞台を点々としていた頃。
 「ランちゃんのファン」を自称する厄介なおじさんを、対面した私が説得して留めている間に、ランちゃんがどこかから持ってきたポリバケツの汚水を二階のベランダからぶちまけた光景は、今でもこの瞳に焼き付いている。
 気が触れたような怒鳴り声。陽が落ちる前の、迷路のような裏路地を、二人でひたすら逃げまわったっけ。ランちゃんは走りながら、実に楽しそうに笑っていた。
 がむしゃらに逃げまくった挙句、私たちが公園の中で立ち止まって、大きく息をついて。
 ふと時計台を見上げたら、針が示していたのは午後六時三十七分だった。

 ……まったくどうして、今、こんなことを思い出しているんだろう、私は。
 それにしても、懐かしいなあ。

 

 思わず笑みを浮かべていると、外観翻案機による完璧なセットを終えていたランちゃんが、私の前に立っていて。
 私を、見ていた。
 疑問ですらない。
 感情の、まったく見えない視線で。

 

 ……お互い、歳はまあとったけれど、確かに私の目の前に立つ「愉快なオートマトン」の仮装をしたランちゃんは、裏路地で変なおじさんにバケツの汚水をぶちまけていた、あの頃のランちゃんと同一人物だった。同じ背丈だし、メイクの下は同じ顔をしているし、あとは、喋り方とか、なにかを観察する時に少しだけ顔を下げて上目遣いになるところとか、何よりお酒が好きなところとか、ひたすら男運が悪いところとか、他にも、他にもたくさん。

 ただ、こういう表情は、かつてのランちゃんは、していなかったかもしれない。
 もう、よく思い出せないけれど。

 ……大人になるって、こういうことなのかしら。
 なんちゃって、ねえ。

 ――ところで。
 私たちがやりたいのって、こういうのだったっけ?

 

 突如、重い音声のあつまりが、鼓膜を揺らして、私の心を弾ませた。
 期待を含んだ観客たちの声が、わずかにこの楽屋にまで響いてきたのだ。
 さあ、いよいよだ。
 開幕は近い。

 私は「いかれた紳士」で、ランちゃんは「愉快なオートマトン」。
 あっという間に、こんな姿になった。

 テクノロジーの進歩は、驚くべきほどの利便性をもたらしたっけ。
 こんなところでも、恩恵にあずかることができる。

 ありがたいことに。
 とにもかくにも、私たちの行う会話コメディ劇は、今でも市井の人々に大人気なのだ。
 明日も明後日も明々後日もやの明後日も、スケジュールはぎっしりと埋まっている。
 私たち二人は、予定された街という街をどんどん移動していき、お客さんにコントを見せる。その楽屋の外観翻案機で、「いかれた紳士」と「愉快なオートマトン」の仮装をして、いつも通りの内容の会話劇を披露する。お客さんは大受けで、沢山の料金が集まって、私たちはその一部を預金残高としてもらう。

 

 私は、「紳士の笑顔」を浮かべながら、斜め後ろの「オートマトン」のランちゃんに振り返る。

 ランちゃんは、
 まるで、死んだような表情で、
 本物の、おんぼろのオートマトンよりも生気のない瞳で。
 どこかのなにかを、見ている。
 ここにはない、なにかを。

 

 ……ねえ、ランちゃん。

 私たちがやりたいのって、こういうのだったっけ?

 (終)

第二校舎は冷えるから嫌

第二校舎は冷えるから嫌

 

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「ここ、動かしますかねぇ」
「いや、もうそこは私がやったから」
「じゃあ、動かしますね!」
「だから、やったってば」

 

 放課後。
 第二校舎の、工作室。
 私と杉街さんは、二人で作業を続けている。
 たまに授業で使う時はそうでもないのに、二人きりだからか、今は不気味なまでに広く感じられた。
 電灯は点けていないので、工作室は若干薄暗かったが、作業するのに支障はなかった。
 木の匂いがする。
 私と杉街さんは、挟んで向かい合う形で、「二枚目の展示板」を補修工作していた。
 私たちが所属する美術部が、来週開かれる学校の文化祭において、自分たちの作品を展示するために利用する、木製の自立するローラー付きの板だ。
 本来、美術部が文化祭に扱う展示板は一枚だった。
 しかし、先輩たちが揃ってかなり大きな作品を描いてしまったので、展示板のスペースが足りなくなったのだ。急遽、古ぼけた展示板を補修する形で使用することになった。
 私と杉街さんの二人の画を載せるための展示板なので、私たちが放課後にこしらえている、というわけだ。
 設計図や材料は用意されていたし、決して難しい作業ではなかったが、若干の時間と手間はかかる。
 時間がかかるのは構わないが、帰りに雨に振られたら嫌だな、と私は思っていた。

 

 ――私たちが現在行っている展示板の補修工作について、簡単に手順を説明しておきたい。
 まず、持ち出してきた古い型の展示板を、工作台の上に横にして載せる。
 足の金属製のローラーが錆びてほとんど動かなくなってしまっているので、これを新しいものと取り替えてやる。
 掃除をする。
 次に老朽化した支柱も取り替える。
 工作台から降ろす。
 前後の表面の壁紙を張り替えて、見かけを綺麗にする。
 「美術部 展示」などと印刷されている用紙を左右箇所に画鋲で留める。
 あとは展示エリア近くまで運んだりもするが、補修工作そのものについては以上の手順で完了する。
 支柱を取り替えるのが、やや厄介だった。

 

 第二校舎は確かに冷えるな、と私はこの学校に入学して以来初めて思った。
 私たちが今いるこの場所は、とりあえず『第二校舎』と定義されてはいるが、半世紀以上前に建てられた旧校舎の一部を解体せずに残し、授業の一部や部活動に転用している――という、やや微妙な立場の建築物だった。
 本来私たちが部室として使っている美術室は、第一校舎の三階に位置しているのだが、この工作室は一階にある。
 わざわざ私たちが工作室に来て作業しているのは、その利便性と、文化祭における美術部の展示エリアへの近さからだ。
 埃がかった壁掛け時計を見れば、午後六時半を過ぎていた。
 「第二校舎は冷えるから嫌」。
 それが生徒たちの定評だった。
 確かに、この部屋に満ちる空気には、独特の冷たさがあるように感じた。
 この旧校舎の一部は、新校舎の北側に存在し、かつ背丈が小さいために、陽光がほとんど当たらないのだ。老朽化が進んでいるために、隙間風がしばしば肌を撫でる。
 ふと、窓に視線を向ける。
 窓枠が切り取る空は、乱層雲の暗い色を湛えていた。雨が降るのかもしれない。
 半袖でいると鳥肌が立ちそうだった。
 昼間の授業中は汗ばむくらいの陽気だったのに。この五月は気温変化がやけに激しいな、と思った。

 

 ――立て直した展示板の前後に、新しい壁紙を糊付けしていく。
 私と杉街さんは、向き合う形で、黙々と作業を続けている。

 

 杉街さんは、小動物じみた顔立ちと、小柄な体格がマッチする女の子だった。
 あまり得意な相手ではなかった。
 同い年の一年生なのだが、何故か私を含む同級生に対して先輩相手のような敬語で話す。
 しばしば笑顔を浮かべていて、一見は可愛らしい。
 だが、そもそも何故笑っているのか、何を考えているのか、その肝心要の所が良くわからない。
 個人的には、杉街さんの笑顔を無機質なものに感じて、若干怖いな、と思う時がある。他の人に言ったことは、まだないけれど。
 性格についても、若干ピントがズレているような所があり、そこも可愛らしいといえば確かに可愛らしいのではあるが、そうでない不気味さを感じることも、私はあった。
 画はとても綺麗だった。
 私などにはとても真似できないような、彼女は繊細な画を描いた。

 

 もうすぐ作業も終わる。
 支柱の入れ替えに手間取ったが、後は説明用の紙を画鋲で留めるのみだ。
 画鋲はどこだっけ、と思いながら、工作室の出入口あたりの荷物を見ていると。
 しばらく黙っていた杉街さんが。
 通る声で、急に、独言のように言い放った。
「――意味、」
 放課後。
 第二校舎の、一階の工作室。
 あまりにも静かだったからか。
 その声は、とてもよく聞こえたのだ。
「意味、あるんですかねぇ、この作業って」
 言葉の後に。
 本来の沈黙が降りて、何故か、それが異様に思えた。
 私は振り返って、杉街さんの顔を見やる。
 彼女は、いつも通りの平然とした、目に見えない何かを楽しんでいるような面持ちで、小さな両手のひらで、ぺたぺたと展示板の壁紙に触れていた。
 私は視線を展示板に向けてから、杉街さんに答えた。
「意味は、あるでしょう」
 言いながら、なるべく声音を落ち着けようとしている自分に気がついた。
 その私自身に、恐ろしい予感のような嫌悪が沸いた。
 そして予感は的中した。

 

 あまりにも唐突だったので、対応できなかった。
 杉街さんは、展示板の隣をすたすたと歩いて、私の目の前に立って、
 何故か、普段のように浮かべている笑みがその顔から消えていて、
 急に私の肩と首の間を、両手で掴むと――。
「意味意味意味意味意味意味」
 おいおいおいおいおいおい。
「意味意味意味意味意味意味意味意味」
 ななななななな、何やってるんだおい。
 意味。
 その二文字を、大声で均一に繰り返しながら。
 同じリズムで、杉街さんは、私の肩を凄まじい勢いで揺らし始めたのだ。
 杉街さんの細腕とは思えないような、強い力だった。
 私の髪の先が滅茶苦茶に動き回り、私の頬や杉街さんの腕にまとわりつく。
 上半身全体が大きく揺さぶられて、肺呼吸がおかしくなりそうになる。
「意味意味意味意味意味意味意味意味意味意味」
 何やってるんだ、何を!
 私は声を上げようとしたが、大きな揺らぎのせいで、息をするのに精一杯だ。
 急速に振動する視界の中で、杉街さんの顔を見る。
 信じられないような無表情が、そこにあった。
 彼女の腕は異様なまでの力で、私の体を動かし続けていた。
「意味意味意味意味意味意味意味意味」
 やめろやめろやめろやめろ!
 まったく、冗談じゃない!
「意味意味意味意味いみ……」
 杉街さんの両手首をなんとか掴み、私から思い切り引き剥がした。
 ほぼ同時に、私を揺動させようとする彼女の手も、止まった。

 

 ――私の視界の中に、私の大きくない手でも簡単に一周できる細い手首と、箸を握ったこともないような杉街さんの白い手の肌が収まった。
 そこで改めて、得体の知れない恐ろしい何かを、私は実感した。
 当の杉街さんは、真正面から私を見つめている。
 小動物じみた顔立ちの、その薄い唇の端は、やはり上に歪んでいた。
 また、あの薄気味悪い笑みを始めていた。
 何、考えてるんだ。一体。
 訳の分からない肩揺らし攻撃の時間は、せいぜい三十秒にも満たなかったろう。
 それでも、私の心身をやたら消耗させたのは確かだった。
 呼吸が荒くなっていた。
 何かを、杉街さんに言い返そうと思った。
 しかし、果たしてそれが有効だろうか。
 声を出すのも、なんだか馬鹿馬鹿しくなってくる。
 彼女の手首から、手を離していいものか困った。杉街さんのことだ。また唐突に何かをしでかすんじゃないか、という危険性を私は直感的に把握していた。

 

 今は、別に冷えは感じない。
 乱層雲の暗い色が覆う日暮れ。
 第二校舎の、だだっ広く薄暗い工作室の端で。
 私たち二人は正面から向き合い、私が杉街さんの両の手首を掴むという状態で、視線を交わし合っていた。
 異様な沈黙の果てに。
 ふと、
 無機質な笑顔と丸っこい眼で、私をまっすぐ見据えながら。
 杉街さんは、私に訊いた。
「今のって、意味、ありました?」

 

 全身がぐったりするのを感じながら、私は、
「……なかったかなあ」
 と、答えた。

 (終)

終点

終点

 がらん、ごろん、と列車が気だるげに駅から走り去る音が聞こえる。
 それを聞きながら、旅人は、地平線の彼方でも、足元のコンクリートの床でもない、その間の周辺を、ぼんやりと見つめていた。

 

 旅人が、木製の古びたベンチに腰掛けている。
 旅人は、長い青色の上衣に、すっぽりと覆われているような外観を見せていた。目深のフードが顔を隠し、陰の差す口元が見えるのみ。ゆったりとした上着の袖は、革製のグローブが覆う手首と、黒いブーツの足首までを堅固に覆っていた。旅人が普段から背負う小さくない鞄は、今は彼の隣に置かれている。
 彼の座るベンチは『駅』の前に設置されたものなのだが、周囲に人気はない。旅人の背が、奇妙なまでに長い影を静かに落としていた。
 ふと、旅人の上衣を、一筋の風が撫で、揺らした。
 穏やかな、暖かい南風だった。
 空は黄昏時。筋雲が高々度にいくらか浮かんでいるものの、今この時は快晴と表現できる気象条件だろう。
 旅人は微動だにせず、ただ、ベンチの上に腰掛けている。
 小規模の『駅』。その前のベンチ。そこに座る旅人。
 旅人の前には灰色の舗装道路がまっすぐ横に伸びており、『駅』がつなぐ線路と並行する形となる。旅人は道路を歩いてきた。
 道の向かい側には、土気色の田園風景がひたすらに続いている。今はあぜ道の他に植物の姿は見えないが、あと一月もすれば苗が植えられ、もう一月もすれば青々とした水田が一円に拡がるのであろう。
 人気のない、それらすべての景色に、煌々とした夕陽が落ちている。
 暖かな風が、大地の上をそよぐ。
 朱色に塗られた風景の中で、ベンチに座る旅人の青い上衣が、奇妙な彩りを与えていた。

 声が聞こえたのと、旅人がぐるりと振り返ったのは、ほぼ同時だった。
「ねえ、旅人さん」
 旅人は声の源に視線を向けた。
 彼の背後。『駅舎』出入口近くの壁沿い。背の高い空調室外機の上、色褪せた排水パイプの下。
 そこに、黒猫がいた。
 いつ現出したのか、旅人には認識できなかった。
 白茶けた空調室外機の平らな表面に、黒猫は半ば寝転んで、くつろいでいた。
 だがその黄金の眼は、ひたすらまっすぐに――旅人へと向けられている。
 旅人はベンチに座り、黒猫は室外機の上にいたので、二人の視線の高さはほぼ同等だった。
 気兼ねのない、高い声で、黒猫は訊ねた。
 他でもない、ベンチに座る旅人に向けて。
「足が痛むの?」
 青い上衣の旅人は、少なからず驚いていた。
 彼にとって、彼のこれまでの旅路にとって、人語を解し話す動物と邂逅する経験は決して皆無ではなかった。しかし、ここまで『現実』に近い領域で、しかも積極的に旅人に話しかけてくるものが現れるとは、思ってもいなかったのだ。何故、こんなところで。
 朱色の夕陽の中。
 フードを被った旅人と、黒猫の視線が、無言のままに重なる。
 ――ここは、他ならぬ『駅』だ。
 そして黒猫は、災禍の象徴だ。
 ふと、その二つの思惑が脳裏を掠め、旅人はまるでそれを振り払うようにして、やや大きな声で猫に告げた。しかしその声音は、長らく彼の発声機能が使われていなかったためか、ひどく掠れていた。
「痛む、わけじゃない。……休んでいる、だけだ」
 思わず咳き込んで、旅人は自らの喉の異状を把握した。
 旅人は真実を話していた。別段、足の痛みなどないのだ。
 歩き通しがしばらく続き、やや全身の疲労が溜まっていた頃合いで、座れる場所が偶然見つかったから、このベンチに座った。彼の認識は、それだけだ。
「誰でも、肉体を動かし続ければ、疲れる」
 独言のように、旅人は付け加えた。
「じゃあ、どうして」
 黒猫は続けて訊ねた。猫は口角を上げる筋肉を持たないが、それは明らかに笑みの色を含む声だった。
「あなたは、その大きな背負い鞄を開けて、地図を見たりしないの? 鞄の中の飲み物をどうして飲まないの?」
 黒猫に言われ、旅人は視線を自らの腰の隣に落とした。そこには、彼と長年の旅を共にしてきた革製の鞄があった。大氷河の獣から奪った皮革を持ち込み、職人に仕立てさせたものだ。やや重みがあるが、頑丈で、ほとんど修理に出したこともない。
 黒猫に視線を戻し、旅人は率直に答えた。
「この辺りの道は直線で、地図を見る必要はない。だから、鞄を開けていない。しかし言われてみれば、若干喉は乾いているな」
「そこに自販機もあるよ」
「必要ない」
 若干のばつの悪さを覚えながら、旅人は鞄の側面からささやかなスチール製の水筒を取り出し、口腔と喉を潤した。
 ふと、猫が前足で示した方向に視線を向けた。飲料物の自動販売機の側面が、駅舎の隣に見えた。気付かなかった。関心の沸かないものには意識が向かないものだ、と旅人は思った。
 彼の様子を、黒猫は、じっと観察している。
 旅人も黒猫を観た。
 まだ成長しきっていない、若い個体だった。好奇心旺盛なのかもしれない。旅路の中で、旅人は経験的に理解している。このような動物や妖精の類は、人間以上に精神構造が多彩で、人語を介することができても会話が成り立たないものも多い。
 どうしてこのような領域に人語を操る猫がいるのか、という疑問はさておいて、旅人はもうしばらくこの猫に付き合ってやることにした。
 疲れを取るまでの、暇潰し程度にはなるだろう。
 変わらず、周囲に人気はなかった。
 まばゆい夕陽が、旅人と黒猫と、辺りを照らしている。

「旅人さん」
 若干の沈黙ののち、黒猫は新たな質問を投げかけてきた。
「じゃあ、どうして、向こうの街の方を見ないの?」
 ……しばらく、猫の金色の瞳を旅人は見つめてから。
 さあ、と返した。
 そう応えるしかなかったのだ。
 旅人が、いつ何時でも目標を見据えているわけではあるまい。
「あなた、旅人でしょう? 旅人は、あの光を目指すんだよね」
「ああ、そうだ」
 応えながら、旅人は、地平線に向けて視線を凝らした。落ちゆく太陽の右側。延々と続く舗装道路の向かう先。
 ……その、遠い、遠い山間に、都市のようなシルエットを覗うことができた――伝聞によれば、それは確かに都市だった。
 時折、夕闇の翳る街の姿の内に。
 きらきらとした、何かが見える。
 様々な色彩の美しい光の点が、顕れたと思いきや、ふと消えてゆく。
 両者とも、一体、誰がどうしてそう呼び始めたのか――『旅人』と呼ばれる者たちは、それを『星』と呼称していた。
 星を掴むこと。
 それこそが、すべての旅人の究極目標だった。
 青い上衣の旅人は重々知っている――あの、星の見える都市に辿り着いても、それは手に入らない。
 星は、旅人を誘い、導くもの。現在見えるところにあるわけではないのだ。方向は間違ってはいないだろうが、実際の星は、更に遥か遠くに存在する。それがどこなのかは、彼の知る由もない。知るはずもない。
 あの奇妙な輝きを求めて、幾多の探求者たちが、今も黙々と旅を続けている。旅人とは、概してそういうものなのだ。
 地平線の光輝を凝視しながら、青い上衣の旅人は、彼の知る他の旅人たちのことを思った。旅の途で、言わば同志でありライバルでもある彼らと出会い、時に協力し合い、時に反目し合った。
 赤襟巻きの旅人は、あの都市に用があると、かつて言っていた。
 鷲の刃の兄弟。次に相見えた時には容赦しない。
 三つほど前の領域で自分が協力した若者は、今も生き残っているだろうか?
 鏡像の戦士。あの存在は遥か先を駆けているのだろうか。
 彼らは今も、探求を続けているはずだ。
 自分も追い付き、追い抜かなくてはならない。
 青い上衣の旅人は、ベンチに腰掛けながら、湧き上がる意思に心を燃やした。

 そんな旅人の感情など、知る由もないのか。
「ねえねえ、旅人さん。どうして、足元を見ないの?」
 あっけらかんとした口調で、室外空調機の上の黒猫は、ベンチの上の旅人に、再度問うた。
 旅人は。
 これにも、さあ、と応えるしかなかった。
 自分が足元を見ないことに、何かしらの不都合があるのだろうか?
 黒猫と視線を交わす。
 黄金色の眼は、じっと、旅人の顔を見つめている。
 ――ごく小さな、しかし確かな疑念が、旅人の心中に募りつつあった。それは微かなものだったが、何故かひどく居心地の悪いものに感じられた。
 この猫は、何が訊きたいのか。自分に、何が言いたいのか。
 旅人は口火を切った。
「今度は、こちらから質問したい」
 南風を頬に感じながら、旅人は、黒猫に向けて疑念を放った。
「……何のために、ここに来た? 何故、ここにいる? 目的は何だ? 何者だ? 偶然、この領域に存在しているわけではあるまい。何かを伝えに来たのか?」
 しばしの間、沈黙が場を支配した。
 黄昏色が支配する空。落ちゆく夕陽。稲のない田園の土色。その間をひたすらに続く線路と道。線路をまたぐ小さな無人駅。その前のベンチに座る旅人と、相対する黒猫。
 最初に言葉を話したのは、黒猫の方だった。
 だが、それは旅人の疑問への答えではなかった。
 新たな質問だった。
「ねえねえ、旅人さん」
 まるで、何も聞こえていないかのようだった。
 旅人の問いなど、何も。
 そして、それまでと全く同じ語調で、猫は訊ねた。

「……どうして、自分に嘘をついているの?」

 虚を突かれた旅人は、思わず眉根を寄せた。
 何を、言っている。
「薄々には、もう気づいているんでしょう?」
 猫の声音からは優しさすら感じられて、それが旅人には不快だった。
「あなたは旅の中で、偶然この『駅』に辿り着いたと思っているのかもしれないけど、そうじゃない。あなた自身が、この場所と、僕を呼んだんだよ」
 ――冗談じゃない。
 思わず旅人はベンチから立ち上がり、長いコートの背を翻して、猫と向き合った。
 猫は続けた。
「……ここで終わりだなんて、思いたくない? 旅人さん。あなたは、まさしく骨身を削って旅を続けた。でも残念ながら、とっくに限界に達していたんだ。星を求める旅は、もう、続けられないんだよ」
 ――やめろ。
 黒猫が語る言葉に、激しい嫌悪感が湧き上がった。
 その嫌悪感が自らのものであることに、他ならぬ旅人自身が驚き、焦った。
 同時に、ある疑念が湧いた――この獣は、自分を言葉巧みに騙そうとしているのか? 担いでいるのか? 魔獣の類なのか? その考えは、何故かとても真っ当であるように旅人には感じられた。
 困惑する旅人に構わず、黒猫は告げた。
 相変わらず、平然とした口調で。
「ここは、終点なんだよ。旅人である自分に、お別れを告げる場所。旅人でない自分と相まみえる場所。勝ち目のない戦いを悟って、それに幕を下ろして、列車に乗って、元いた場所に戻っていく、そんな場所」
 ――だまれ、だまれ!
 旅人は、腰のベルトに下げた短剣を鞘から抜いた。
 形状はナイフに近いが、肘から指先までの長さを持つ、それは紛れもない剣だった。旅の初めの頃、古城の奥深くに眠っていた一振りを掘り起こし、繰り返し改修して打ち直した、彼の旅路そのものとさえ言える武器だ。この刃の一閃が屠った敵は数え切れない。
 黒猫に向けて、自身を騙そうとする獣に向けて、旅人は躊躇なく飛び掛かった。
 厳密には、飛び掛かろうとした。
 信じられない程に足元がおぼつかなかった。
 まるで腰から下に神経など通っていないかのように、僅かな感覚もなく、旅人の体は大きく揺れた。
 ぐらり、と全身が崩れて、それを彼はどうすることもできなかった。
 両膝が力なく曲がり、旅人はしたたかに体の前部をコンクリートの床に叩きつけた。
 胸部が急激に押され、ごふっ、と肺から息が漏れる。
 右手に取っていた自慢の短剣は、いつのまにか零れ落ちてしまっていた。
 ――まさか。
 まさか、こんなに。
 黒猫は、自ら崩れ落ちた旅人を見下ろしながら、静かに告げた。
「……あなたが初めてここに来て、座ったのが、いつのことだったか、覚えてる?」
 地面に倒れ伏し、ひく、ひく、と蠢く旅人に向けて。
「もうずっと……ずっと、昔のことなんだよ。意識的な自覚はなかった。でも、あなたは、とても長い間、ここに座っていたんだ。あなたは旅を諦めきれなかったから。あなたは自らの旅人としての限界を自ずと理解していた一方で、星を掴みたいと、掴めるはずなんだと、そう願ってもいたから……信じていた、から」
「……お、俺は、まだ、まだ……」
 ふと、強い風が吹きすさんだ。
 それは、地に倒れ伏した旅人のフードを捲り上げた。
 中身が、露わになった。
 旅人が上衣のフードの中に閉じ込めていたのは、骨だった。
 頭蓋骨の、それも本来の大半が失われた一部分だけが、口元周りの肉を申し訳程度に纏わり付かせて、どうにかそれらしい形を取り繕っているのだった――汚れた包帯が肉と骨の癒着部に巻かれているが、果たしてそれに意味はあるのだろうか? どのような、意味が?
 長い上衣の内の肉体も、頭部と同様だった。
 筋肉と内臓の一部を纏う、崩壊し、削がれた骨格。
 それこそが、この旅人の真実の姿だった。
 彼自身の精神の発露でもあった。
「……ま、まだ……!」
 旅人の首は、既に脊椎しか残っていなかった。
 声帯はおろか、喉らしい喉すらないのに、声を発して、彼は体を震わせて、もがいた。
「さあ、行こう」
 黒猫が、流麗な動作で床に着地して。
「君を迎える列車が、来てくれたよ」
 旅人の、肉のついた頭蓋骨に歩み寄って、やはり優しく告げた。

 

 がらん、ごろん、と列車がじわじわと駅に近付く音が聞こえる。
 ただ一車線しかない、戻る道にしか行かない、その列車が。
 夕陽の照らす、駅前の床の上に。
 青色の上衣を纏った骸骨が、旅人が、まさしく死体のように、動かないでいる。
 動かないで、いる。
 彼が、自らの感情の何もかもに片を付けて、一つの終止符を打つまでには、もう少しの時間が掛かるのかもしれなかった。

 (終)

しずむ

「あーしんどい」
 夏の晴れの昼間である。今日の予想最高気温は36度。この人気のない公園とて、その脅威の例外ではない。
 肌に悪そうな陽光の下で。
 年季の入ったベンチに私と先輩は座って、人を待っている。
 蝉が鳴いている。
「しんどい」
 目の前の蒸し暑い空気に向けて、先輩はその言葉をぼやく。
 さっきコンビニで買ってきた棒アイスを少し舐めては、ぼやくのだった。
「あーしんどい」
「暑いからですか?」
 まるで、聞こえていないように思えた。
 だが一呼吸のち、私の何気ない問いに対して、先輩は気だるげな声音で応対した。
「まあ、暑いのもあるな。しんどいのは。……でもそれだけじゃないな。分かるだろうが」
「はい。私も分かっていると思います」
 私は腕時計を見やる。文字盤のカバーが陽光を照り返していた。
 針は午後二時四十三分を差している。
 隣の先輩は私を見ずに、誰もいない前方の公園の風景に向けて、言った。
「しんどいのは、我々があいつを待っているという、この状況そのものだ」
 棒アイスを舐めて、また「しんどい」とつぶやいて、先輩は何気ない仕草で、もう半分になった水色のアイスを睨んで。
 蝉の鳴き声の中で。
「あいつは来るのか、そもそも。……来ても、嫌だな」
 と、ぼやいた。
「でも、私たちは待っています」
「そりゃあ、約束だからな。こっちとしても、会いたいし。……ん、いや」
 先輩がアイスを舐める。
 蝉の鳴き声。
「どうなんだろう」
 僅かな風もない日だった。
 私たちの座るこのベンチは、ひたすらに陽当りが良い場所に設置されていた。周りに陰になるものがないのだ。
 どうして、こんな場所で待ち合わせしてしまったのだろう。
 私は鞄から水のボトルを取り出して、温い中身を口に含んで、飲み込んだ。温い水の味がした。
「しんどいなあ」
 先輩は、背中をぐいっと反らせて、やはり独り言のように言った。
「あいつと会うのも、話すのも辛い。正直、会いたくないし、話を聞きたくもない」
 でも会わないといけないですよ、と私は思った。しかしそれを言うのは私の役目ではないので、黙っていた。
 先輩も、しばらく黙っていた。アイスを舐めながら。
 肌に悪そうな陽光の下で。
 年季の入ったベンチに私と先輩は座って、人を待っている。
 蝉が鳴いている。
「いや、それも違うのか」
 僅かにクリームを残すのみとなったアイスの棒を舐めながら。
 隣に座っている先輩は、言った。
「辛くなくなっていくのが、辛いんだ」