(調査二十四日目・幕間)

(調査二十四日目・幕間)
 
 
 まるで死体のように、メロウ姉さんは椅子の上で毎晩ぐったりと寝そべるのだ。細やかな彫刻の施された、木製の安楽椅子――この街では、木製品はそれだけでも珍しい――の背を思い切り傾けて、ほとんど仰向けのようなだらしのない格好で、顔の上に両手で掲げた『本』の印刷文字を、姉さんは黙然と凝視した。
 本を構成する紙群を閉じる厚手の黒い表紙には、古い共用語と思われるタイトルが彫刻のような白い意匠で印字されていた。強いデフォルメのためか、あるいはぼくの共用語語彙の貧弱さのためか、ぼくはその題名を読み取ることができない。
 そうだ。まず『本』の説明をしなければならなかった――本とは、いわば地球古風趣味に属する奇妙な形式の印刷媒体だった。ぼくらが普段接しているドキュメントやリーフレットの類とは完全に一線を画している。十数センチメートル四方に切り揃えられた長方形の白紙に、専用インクでの単色活版印刷(そんなシステムが今もどこかで運用されているなんて!)を施したものを、一辺にぴったり沿うような沿う何らかの形で――恐らく分子蒸着技術で――束ねているのだ。そして厚紙の『表紙』で挟み、ひとつのまとまりにすることで、携行と読解を可能とした完全無垢たるアナログデバイスである。ぼくは『本』というこの媒体についてそれ以上の素性は知らないが、その製造の全工程において専用の機械類が用いられている事実は疑いようがなく、また「たとえ少なくとも欲しがる人がいるから供給もしている」類のアンティークであり――その類の物品の常として、おしなべて高価だった。
 データベースとフィールド操作盤と網膜投射を併用すれば、遥かに安価で手軽、かつ身体への負担も小さい形で、まったく同じ文章が読めるのにもかかわらず、ぼくの姉さんはこの本という超原始的フォーマットをとてもよく好んだ。『本棚』(お察しの通り、本を置くための棚だ)なるものを複数注文して、この家のリビングと自室に持ち込み、ジャンルや分類ごとに背表紙を並べてしまうほどに……。遠き星々から専用便で輸入された本たちの総数は、一千を優に下らない。
 野暮ではありたくない。他人の趣味に対して、「希少資源の浪費では?」とか、「その姿勢は腕が疲れないの?」とか、「そもそもその形式に何の意味があるの?」とか、そのような類の質問をぶつけるつもりは、ぼくにはこれっぽっちもなかった。それにしたって、ぼくの抱いているそうしたごく普遍的な感慨は、ほんの僅かなりとも、態度や表情として漏出してしまうのかもしれなかった――。傍若無人のくせに繊細過敏なメロウ姉さんは、その気配をぼくから感受したのか、手に取っていた『ハードカバーの書籍』を眼前まで近づけて、「すんすん」とあえてゆっくり鼻を鳴らした後に、顔の下を本で隠したまま、灰色の瞳だけをぼくに向けて、こう言い放ったことがある。
「においが、いいんだよね」
 姉さんは今夜も、そんな魅力的香りに満ち満ちた(らしい)本の一冊を両手に掲げて、マホガニー木材製の安楽椅子に寝そべるように寄りかかっている。例の芯の強い視線で活版印刷製の文字列をまっすぐ凝視しつつ、しかし唇の端を微妙に歪めながら、滔々と読書に勤しんでいた。
 ぼくは、そんな姉さんの斜め上――リビング、あるいは大泡室の上部に備え付けられた一連の装置を見上げる。室内の気体循環システムは音もなく正常動作している。外部フィルターはぼく自身が昨日交換したばかりだった。修理用ドローンをレンタルすることもできたが、多少なりとも依頼料は無視できなかった。ドローンに雑務を任せすぎるのは良くないとぼくは思う。できることなら、自分でやった方がいい。
 自室のバッグに残されたカプセル型閉塞観測装置を、ふと思い出した――今日の『崖下』での地質取材の情報が、その内部に保管されているのだ。どう調整してどう切り取れば、゛この世界に最初からいない”エアリーオービスの痕跡を完全に抹消する形で、公開レポートの情報として利用できるか、帰路から延々と思索していたのだ。
 崖下の地質データは一介の大学生のレポートを構成するものとしては既に十分に整っていたと思うけれども、提出期限までには更に完成度を高めておきたかった。それは評価のためというよりは、ぼく自身の一種の矜持に由来している。ぼくは「地元の世界の地質調査」というこの課題において、教授と査定アーティからのありふれた評価ラインなどは関係なく、自ずから定めた水準の記録として、それを残したかったのだ。叶わないことをあえて言うならば、もしかしたら、これから銀河系が茫漠たる時間を経ても、この惑星ナピに興味を抱いた何者か参照に耐え得る、一定以上の蓋然性と客観性を有する、『記録』として。
「あ、そういえば」
 安楽椅子のメロウ姉さんが、ぼくの背に急に声をかけた。
「例のレポートの地質調査、まだ続けてるんだっけ。毎日荒野くんだりまで」
 僕の精神の最深部が、ぎくりとするのを明確に感じ取ってしまった――メロウ姉さんが『荒野の地質調査』の話題に触れたのは、ぼくの記憶と記録によれば八日前に遡る。
 不意打ちだった。
 絶対条件。
 エアリィオービスの秘匿。
 落ち着け。
 相手は他ならぬ姉さんだ。機敏の聡さはぼくの想定を遥かに上回る。もちろん、ぼくは細心の注意を払っていたし、準備も万全のはずだった――なんといっても、まさにこのような状況に合わせて、鏡面に向けたシミュレーション練習さえ、独りで敢行していたのだから。
 ぼくは、六メートルほど離れた位置に座っているメロウ姉さんに、事前の準備通りの動作で振り向きつつ、事前の準備通りの言葉を、事前の準備通りの声音で、正確無比に回答した。
「……他の課題ももう終わっているし、地質学のレポートは理想的な形になるまで、やっておきたいんだ」
 瞳が、
 椅子に身を預けながらも、メロウ姉さんのふたつの灰色の瞳が、ぼくの顔を見つめていた。
 息を呑むのを、殺した。
 こちらの脳幹の奥底まで見透かして、すべてを剥ぎ取ってしまうような、一対の、輝き――。
 だが、視線が重なったのはほんの微々たる瞬間で、すぐに姉さんは手元の『本』に意識を戻すと、「ふうん」と唸った。
「理想形、ねえ。学生さんはまことに結構だこと」
 その声に含まれていたのは、にべもない無関心と、明確な眠気だった。
 どうやらぼくの懸念は杞憂に終わったらしい。姉さんの姿勢は先ほどからまったく変わっていない。プラチナ・ブロンドの長髪を傾ぎきった椅子の背もたれに無造作に垂らして、寝間着の乱れも構わずに、両手に取った黒いハードカバーの内面を見据えている。ただ、その本の内容は若干退屈なのかもしれなかった。
 また、やっぱりその読書姿勢は、首周りの筋肉に相応の負担がかかるようで――首を左右に傾いで、メロウ姉さんは「ぐあ」と小さな溜息を吐いた。

 そして、
 声に出す事実があまりにも当然であるが故に、特に強調する必要もない、
 とでも言わんばかりの、実に落ち着き払った口調で、
 姉さんは、こうつぶやいた。

「でもわたしは、みんなの理想形の惑星開発者、だからなあ」

 ――つい、怪訝な面持ちをしてしまったかもしれないし、唖然として表情筋を動かせなかっただったような気もする。
 ともあれ、ぼくは普段通りの姉さんの放言を沈黙で受け流した。そして可能な限り自然な歩調でもって、リビングを横切って自室へとまっすぐ向かった。
 扉を閉めて物理鍵をかけてから、ようやくひとつ溜息を吐くことができた。
 床に無造作に置かれたバッグのサイドポケットから、カプセル型閉塞観測装置を取り出して、総合情報処理端末の曲面モニタの前に腰かける。

 カプセルを端末に載せて、生体認証接続を行う直前に。
 ぼくは、ふと、手を止めた。
 指先に握られていたのは、観測・記録デバイスである卵のような青い物体だった。
 カプセルを、ぼくは見つめていた。
 そしてその時、まったく同じように。
 カプセルもまた、ぼくを見つめていたのだ。

 ――とてもくだらない、ある思惑、あるいは疑問が、ぼくの大脳皮質の内奥を反響する。
 そのシナプスの摂動は、まさにくだらない、根も葉もない思い付きそのものであって、一笑に伏すまでもないような代物だった。
 事実、ぼくはすぐにそれを振り払った。

 ただ、少しだけ、考えてしまっただけだ。

 ――ならば、ぼくは、あの少女にとっての理想形のひとつに、なれているのだろうか。
 あるいは、なってしまっている、のだろうか。

(『惑星開発姉弟のクリスマス』より)

亡骸<なきがら>

 亡骸<なきがら> 作:ムノニアJ

 

 彼には、理由がなかった。
 それが、理由だった。
 だからこそ、ただひとつの欲動は、彼が身を底深く焦がした。

 ――おれは、「理由なき徒」ではない。

 あまりにも単純な、ただそれだけの結論を、彼は厳然たる確信をもってして、この世の地表に堂々と穿ちたかった。そして世界のすべての空を揺らす大音声で、猛然と叫びたかった。それは抑え難く耐え難い衝動であった。彼は自らの不理由性の矛盾を証明せんがために、あるいは、その証明不能を反証せんがために、休息と永久の縁切りを果たした。一種の欺瞞的歪曲に充ち満ちた不断は、やがて彼の生命そのものと融合し、遂には等価となった。
 しかし彼の行為の何もかもは、虚しくも、無為無益の徒労として落着した。彼の力は着実に増幅し、過剰なまでに肥大化していたが、それでもあらゆる試みにおいて、耐え難く無惨な失敗を幾度となく遂げていったのだ。時にそれは必然にさえ思える程であった。彼は「自らの理由の欠如」という仮想的属性を対象として、首尾徹底たる探求を繰り返し、真心によって対面し、時に深く抱擁したかと思えば、あらん限りの罵倒を延々と浴びせかけた。あまりにも永い繰り返しだった。彼の手によって正確無比に投げ放たれた苦闘の雪玉たちは、それでもなお、無意味の壁にひたすら打ち砕かれて、惨めな残滓を晒しながら融け去っていった。ついには、招かれざる客――疲弊が、戸を叩き始めた。
 そして「理由」は、彼の雪玉のすべてが完全に融け切った瞬間を、そして彼がその肺臓そのものを底深く昏い吐息へと替え、最後の呼吸をついに遂げた瞬間を、まるで獰猛な悪意をもって狙いすましたかのように、その眼前へと現出したのであった。彼はまず、己が認識を疑った。理解を疑った。観念を疑った。「理由」などと呼称されるものは、常としてまず疑念の視線で直視される宿命にあるのかもしれない。あるいは、度重なる徒労感と敗走の追憶に、直視しがたい程の被虐的疑念が彼の心身にその根を張り詰めていたのか。
 疑念を疑念で掬い洗ってなお、「理由」は、首尾一貫した燦然たる輝きをもってして、彼の前に存在していた。
 それは、純然たるもの、だった。
 彼の「理由」を追い求める旅路は、著しい貪欲と傲慢の為せる業であった。彼は相対性を忌避する絶対者であった。彼の業は、世における彼以外のあらゆるものを飲み込み、自らにとっての最適な構成素子へと還元していた。同時に、彼はすべてを孕んだが故にまた、終わりなき混沌の坩堝と化していた。「理由」の獲得の為ならば、彼は自らが不可逆的無秩序と化すことさえもまったく厭わなかった。そうして、彼は地獄だった。
 純然たるもの。
 見落としていたのは、至極道理と言えよう。
 当然のことながら、彼はほとんど本能的な衝動より、それに向けて手を伸ばそうとした。遂に相対した「理由」に、指先で触れて、掌で掴み取り、腕を曲げて牽引し、牙をもって喰らい、我がものへと換えようと試みた。だが彼も、もはや半ば理解していたのだ。もはやその存在は、自らの手にかけることなど、いかなる道程を経ても絶対に叶わぬものであるという真実を。そう、もはや自らの肉体と精神が「純然たる」ことなど、二度とあり得ないのだという因果を。彼はその存在価値を全面的に「理由」の獲得に捧げたが故に、その「理由」を永遠に見失ってしまったのだ……。彼は驚愕し、狼狽し、焦燥すると、ついには嚇怒した。だがそれらすべての前に、彼は著しく疲れ切っていた。探求に身を費やした当然の結末としての徹底的消耗は、他の精神的諸活動に実にあっさりと打ち勝った。彼の姿は、もはや枯れ木とすら言えなかった。指どころか、眼筋の一本動かすことさえも叶わぬ、疲弊の化身。
 「理由」の姿を眼に焼き付けようとしたが、その試みすらも濁った暗闇に阻まれて、彼は転落して倒れ伏した。

 ――おれは、「理由なき徒」だったのか?

 彼は、答えを、掴み損ねた。
 彼は、純然たるもの、に、なれなかった。
 彼は、理由なき者として生まれ、理由なき者として生き、理由なき者として、死んだ。

 

 ひとつの、微かな亡骸を前にして。
 純然たるものは、その場に膝を崩し、両手を顔に当てがうと。
 哀しげな啜り声を上げて、ついには泣き出してしまった。

 <完>

 

 

ライヴシフト・トランスレイション

アサイド

「ライヴシフト・トランスレイション」

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ハンドメイド・オートマトン・メイカーのルーメンス・ライヴシフトは、時折、奇妙な夢幻と遭遇する。
――ひたすらに無秩序で、限りなく無意味で、根拠も示唆も答えもない、幻と。

短編・SFノベル。


【主な登場人物/人形】

ルーメンス・ライヴシフト – ハンドメイド・オートマトン・メイカー。
オリオン – ルーメンスが構築したオートマトン。
三つ編みの少女 – ティアサイド・オートマトン・ミュージアムの入場者。


ライヴシフト・トランスレイション


1.


 わかっているのだ、このオートマトンがいかなる仕打ちを受けるか。
 わかっているのだ、このオートマトンに待ち受ける宿命を、結末を。



 日が明ける。
 日が暮れる。
 それでも、べつに、なにもない。



 ルーメンス・ライヴシフトが、ひどく古びた暗渠のようなレンタル・ガレージの端で、がちゃがちゃと騒々しい音を鳴らしながら、自らのハンドメイド・オートマトンの白い腹を開き、その内部機構をいじくりまわしている。
 彼は、それが、とても好きなはずなのに。
 煤と油と培養触媒に穢れた、その面持ちは。
 何故か、嘆かわしいような、
 何故か、困っているような、
 何故か――己が人生における致命的な過ちを、それが言わば浮遊するガスであるにもかかわらず、耐熱グローブに包まれた両手で、掴み取ろうとして、当然のごとくの失敗を繰り返しているような――奇怪なる悲嘆に、満ち満ちていた。
 彼は、それが、とても好きなはずなのに。
 好きだったはず、なのに。



 朝。
 白の擬似漆喰の壁に囲まれた、ひとつの部屋。
 ささやかな夢の残滓は、義務と責務と空腹から芽生えた、小さな突風の中に消え去って。
 落葉すべしともがく両の目をしばたたき、全身の自律神経系のあまねく叫びを大いに聞き取りながら、自己増殖的炭水化物と合成蛋白とモリー由来の脂肪分のPFC等間隔的塊にプラスティッキィ・フォークを刺し、黙念と口腔に放り入れる、あるいはルーメンス・ライヴシフトは、その味覚を背にしながら束の間に夢想してしまう――あるいは、蝶に紡がれた赤い糸、あるいは死の恩寵、幽かに灯るランタン、美麗なる海底の燐光、力尽きた旅人と灰色の大地、宗教的血痕、そして――奇妙なオブジェクトたちは半ば自動的に彼の表層意識に湧き上がり――。
 頭を振る。
 なにもかも、自動人形とは無関係なヴィジョン。
 突拍子もない夢想を始めてしまう――最近は特に。ルーメンス自身にさえ、自らのその意識の動きが疑問であり、不愉快でもあった。
 スポア系食物繊維と微小生物粉砕ミネラルと神経機能補完製剤を溶かしこんだ液体を、一挙に喉に流し込む。
 息をつく。口をぬぐう。時計を見る。
 部屋の小さな窓から、乾いた陽光が差し込んでいた。サンライト・ベージュのカーテンが僅かに揺れる。
 再び時計を見る。
 今日が、とっくに始まっている。ルーメンスス・ライヴシフトは粛々と立ち上がる。



 ルーメンス・ライヴシフトはオートマトン構築が生来から好きで、やはりティアサイド・オートマトン・ミュージアムにて開催される月例展覧会への出品を目前として、自らのハンドメイド・オートマトンを構築し、それを予定通りの完成へと向かわせつつあった。そして彼はオートマトン構築が生来から好きで、日々の余暇を落とし込みレンタル・ガレージにおけるそれに独りで精を出している。そして彼はオートマトン構築が生来から好きだったが、それを生業に落とし込めるほどの自負と才覚にはどうやら恵まれなかった。
 それにしても。
 果たして、彼はオートマトン構築が生来から好きだったのだろうか。
 本当に、そう言えるのだろうか。


2.


 数日後。
 「特異点における人類文明のオートマトンへの屈服」なる古典的に過ぎるテーマの演説をがなりたてる狂人を尻目に、ルーメンス・ライヴシフトはその歩みを緩めない。世の中には色々な、本当に色々な奴がいる。ミュージアムの一般入場者の群れの誰もが、狂人を完全に無視する形で各々の目的地へと進みゆく。それでも絶叫じみた主張を止める気配もない狂人の方向から、ルーメンスは巷に出回るラセミ化アンフェタミンを主成分とするグレイス・キャンディのストロベリー臭を僅かに嗅いでいた。くだらない。
 目眩を催すほどに広大なホール――ティアサイド・オートマトン・ミュージアム会場のすべての豪奢と喧騒が、歩むルーメンスを包み込んでいた。企業ブースは掘削用巨大オートマトンの実働展示を遂行し、都合四基のクレーン先端が強烈なシグナル・ライトを放ちティアサイド・ホールの一角を七色に照らし出す。自動人形系の人気歌手ユニットが、人類には発声不可能な音程を時に混ぜながら一度歌い上げさえすれば、集合した観衆の嬌声じみた歓声を欲しいがままにする。小柄な宇宙探査用の最新型オートマトンは環境カプセル内に構築された真空無重力空間における探査作業のシミュレーションに没頭し、その成否を親子連れに見守られている。遠いオートマトン競技ブースからは格闘戦のリアルタイム・ヴィジョンが上空に拡大映写されており、実況者の決死じみた叫びとそれを凌駕する客どもの唸りが響き渡ってくる。大昔のフィクション内のオートマトン由来の奇矯な格好をした一般客がルーメンスの隣を平然と通り過ぎ、どこかの売り子がどこかのブースのチラシを声高に叫びながら配り歩き、売店脇では学童連中が熱烈な議論を繰り返していた。どこを見てもお祭り騒ぎ。
 すべてはくだらない。
 それでも。
 ルーメンス・ライヴシフトが喧騒と雑踏の何もかもを足早に通りすぎて、目的のブースへと向かう途で。
 ――ふう。
 と、小さな溜息を吐いた。
 ある存在と、出会ったから。
 『蔦をその体に巻いた子象』と、出会ったから。

 盛況を極めるティアサイド・オートマトン・ミュージアムにおいても、ホール内の余剰スペースは存在する。
 どのブースもコーナーも敷設されておらず、また一般客たちの通路にも必然的に成り得ない場所。そうした地点には概して手持ち無沙汰になった客がたむろしているものだが、そうした中でも誰にも支配されていない、ホールの奥まった隅の、照明さえ陰るひとつの小空間――そこに、
 ルーメンス・ライヴシフトは、一匹の子象を見ていた。
 初めて、歩みを止める。
 横目に――しかし鋭い眼光で、ホールの陰に黙然と屹立している、場違いな野生生物を、彼は凝視している。
 子象は、ルーメンスの幻の尖兵であった。
 全高はルーメンスと同程度。くすんだグレイの体躯は、いつも何故か細長い蔦たちに絡まれている。
 身動きひとつせず、自慢の鼻も揺らさずに、ただ一対の黒瞳が、ルーメンスをじっと凝視している――どこか、哀しげな色を湛えて。
 ルーメンスは、眉をひそめていた。
 ――この「子象」は比較的出現度の高いものだったが、まさかこの場所で、この瞬間に現れるとは。

 ルーメンス・ライヴシフトは、時折、「幻」と彼が呼称している存在と遭遇する。
 彼はそれらを、自らの無意識上における一種の外的発散現象であると冷徹に把握している。幻は数時間から数ヶ月に一度の頻度で彼の前に現出した。いつ始まったのかは覚えていない。幼児期あるいは乳児期からであろう。それらが己の脳神経系が意図せぬ原因により造成したものであり、他者には認識され得ない幻像だという事実は常として理解し客観視もしていた。
 経験的に導き出したこの生理現象の一般的な経過は、まずルーメンスの意識が奇妙な方向に逸脱し、現状とは無関係な光景や物体が脳裏に浮かび始める。この初期過程は省略されることもある。続いて視覚的ヴィジョン――この世にあるはずもない幻像が、彼の認識する視界内に、唐突に出現する。それを放っておけば範囲領域が自動的に増大し、聴覚ほか別感覚にも訴え始めるようになる。
 蔦を巻いた子象は、典型的な「尖兵」だった。ルーメンスの認知する幻のスタート地点のひとつ。
 ルーメンスはごく自然に考える――このまま子象の存在を放置するならば、徐々にその周囲に「仲間」が増えてゆくに違いない。
 いつのまにか、像の辺りには異様に背の高い紫色のひまわりが聳え、燕に似た鳥たちが空中を飛び交い、風車を頭に生やしたアザラシがあくびをすれば、正十七面体のサイコロたちが転がり、巨大でふくよかな体を持つ雀蜂が舞い踊って、遠いさざ波の音色とともに、勝手に跳ね回るブロックの玩具が地に音を立て、綺羅びやかな青い蝶が視界を遮り、ペイズリーじみた何らかの紋様が延々と続く長い布のようなものが、ついにはルーメンスの体をまさぐり始めて――。
 ルーメンス自身の、少なくはないと自負する経験を通して、この生理的現象に関して彼が得た、ひとつの解釈が存在する。
 これは、何の答えも示唆していない。
 いかなるものにも繋がっていない。
 理由も、意味も、意義もない。
 それでも幻たちは、彼の前に現れる。
 視覚的、聴覚的、時には他の感覚的作用を伴いながら。
 幻たちは、出現こそ唐突ではあるが、ルーメンス自身に何かしらを強要する類の現象ではなかったのは幸いと言えた。また彼はその性質を心得ていた。故に、この現象によって大きな損害を被った経験もない。

 ティアサイド・ホールの、照明の当たらない隅で。
 いつまでも身動きせず、彼をひたすら見つめている一体の獣に向けて。
 消えろ、と念ずる。
 ルーメンス・ライヴシフトの視覚領域内において、蔦を巻いた子象の存在がふと透明度なる要素を増大させる――次の一呼吸後には、完全に消滅していた。
 ティアサイド・ホールの、誰にも見留められない陰の空間は、本来あるべき姿を取り戻した。
 ルーメンスは背を向けて、再び歩き出している。執着は一切存在しない。幻との遭遇とその潰滅は彼の日常の一部であり言わば呼吸のようなものだ。何らかの「異変」ですらない。
 ただ、
 ――ルーメンスは、ミュージアムに溢れる現実の雑踏を掻き分け、現実の映像看板を無視し、現実の騒音を聞き流しつつ、黙々と歩を進めながら、あてどもなく考える、理由はわからない、
 ただ、
 頻度が、増している。


3.


 他のすべてはくだらない。
 ハンドメイド・オートマトンのみがこの世の真価だ。
 ルーメンス・ライヴシフトはそのような価値観に則ってこれからを生きてきたし、これまでも生きるのであろう。そして言うまでもなく、その間隙の現在を生きている。
 はずなのに。



 ミュージアムの端に構えられた月例展覧会のブースは、会場中央部ほどの喧騒や熱気は感じられない――当然。ブースを囲うダーク・ブルーの防弾防音パネルにより、まずまずの静寂を構築することに成功しているのである。
 ティアサイド・オートマトン・ミュージアム内で、月例展覧会が開かれるのは珍しいことでない。
 展覧会とは、数々の『人形屋』が自発的意思で集い、各々の構築したハンドメイド・オートマトンを一同に介して交流する機会であった。
 会場の入口で、歩みを止める。
 ルーメンス・ライヴシフトの表情は変わらない。
 ただ、目立たぬように――ゆっくりと、大きく、呼吸する。
 肺の中の空気を、入れ替える。
 そこには、
 何もかもの色彩に、何もかもの光輝があった。
 すべてが満ち溢れていて、同時にすべてが喪失している、とも言えた。
 ルーメンス・ライヴシフトは、このような類の――ハンドメイド・オートマトンの展示会に訪問した時に、ようやく、自らの生きるこの世界における一種の安定性と固着性を認識し、また信じられるようになるのだった。

『お久しぶりです、ライヴシフト様』
 横手に図々しく現出し、彼の隣に浮遊する立体グラフィクス・オブジェクトを、ルーメンス・ライヴシフトはちらりと一瞥した。それで十分だった。
 半透明に描画調整されたこのグラフィクスは、このブースにおいて、オートマトンや関連する情報提示機能を執り行う梟型の模擬人格ヴィジョンであった。名前は何だったかな――どうでもいい。
 グラフィクスが何かを言いかけたが、ルーメンスは直後に音声で自動トーク機能をオフに設定する。
 その両の眼窩を彩っているのが、ヒト用の人工眼に替わっていることに気が付いて、ルーメンスはつい微笑した――馬鹿馬鹿しい。純粋なスタンディング・グラフィクス・オブジェクトに、人工眼設定とは。
 悠々とした足取りで、ルーメンスは会場を歩み始めた。

 ブースを歩き回る。見て回る。
 一定の距離を置いて飾られるのは、無数のユニークなオートマトンたち。
 時に近づき、時に語りかけ、時に触れて、その美術的達成度や、職人芸なシステムや、バラエティ溢れるアイディアに心底から敬服する。他の人形屋たちと、構築技術や理論についての会話を交わす。
 楽しい時間を満喫していた。
 ルーメンス・ライヴシフトは、気付こうとさえしてない。
 ある、恐るべき、偶発的直感――奇妙な違和の分子とでも言うべきものが、彼の精神に、徐々に、絶え間のない累積を続けており――それを他ならぬ自らが避けている事実に、彼は気付こうとさえしていない。

 展覧会ブースの端に、がらんどうのスペースがあった。
 暗黒色の保護用マットだけが、床に敷かれている。
 まるで、そこにいたはずの、一体のオートマトンが消えてしまったようにも見えた。
 ルーメンス・ライヴシフトは、情報提示型の梟型グラフィクスの方を仰ぎもせずに、抑揚のない口調で訊く。
「フランツ兄妹は、やはり来ていないのか」
 梟は、プログラムされた通りに――明々たる声音で回答した。
『彼らは、「もう飽きてしまった」そうです。ウェブ上の情報は見ていないのですか?』
「見た。現地で確認したかった。……本当に、いないのか」
 嘆かわしいことです、と言わんばかりに、梟は頭をゆっくり振った。
『フランツ兄妹はインスタント・メッセージをひとつのみ残して、ネットワークにおける他のすべての記録を消し去りました――あの類稀なるマトンの設計図案も含めて。財産を注ぎ込んで築き上げた、ハンドメイド・オートマトンを巻き込んだ今までの生活に「飽きてしまった」ので、「遠い場所」に移住手続きを進めている、とのこと。当然、オートマトンも出展されていません』
「知っている」
 フランツ兄妹とは、長い付き合いだった。展示会ではしばしば交流していた。ひどい変わり者の二人組だったが、ルーメンスなどより、遥かに素晴らしい精緻極まるハンドメイド・オートマトンを精力的に創り出していた。
 ――飽きてしまった、か。
 飽きてしまったのなら、仕方ないか。
 ルーメンスは、空のスペースに背を向けて歩き出した。

 数分後。
 良く似た、がらんどうの展示スペースを前に、ルーメンスは再び立ち止まった。
「マーシュビッツも、いないのか」
 梟が、ほんの少しの間を置いてから、淡々とした語調で答えた。
『他の参加者の音声情報を集積し、その内容からわたしが推測した結果ですが――彼は一種の宗教的模索の旅へと出発されたそうです。彼もまた、すべてのネットワークにおける活動記録を消滅させています。オートマトンは出展されていません』
「誰しも、最期はひとりで死ぬもの、か」
 梟は答えなかった。当然だ。それを解釈する頭脳さえこいつには用意されていない。
 ハロン・マーシュビッツは、燃え盛る炎のような男だった。彼のオートマトンには、その熱気がありありと反映されていた。ルーメンスは冗談のような労力が割かれたであろう彼の操るギミックを思い出した。丹念に造られたオートマトンに宿るらしい『魂』なるものを、握り拳を震わせながら語る青年――あの熱意は、一体どこからやってきたのだろうか? そしてその情熱は、今は――。
 ルーメンスは、ふたたび歩き出した。

 三度、新たながらんどうのスペースを前に、ルーメンスが、
「ミス・ハピネスは」
 梟は、やや訝しむような語調で、
『あの方は、半年前にメイキングをやめていますが』
「……どう、書いたんだったか」
『はい?』
「最後のメッセージ。ハンドメイド・オートマトンに関連付けられた、最後の」
 長くはない検索期間を置いてから、梟が、言った。
『――「結局はつたない遊び、わたしは夢の断片、意味のない拠り所にすがっていただけだった」……ですか? 彼女が関連するネットワーク上に残したのは、その一センテンスだけです』
 ルーメンス・ライヴシフトは、反応しない。
 是も否もなく、沈黙している。
 そんな彼を見かねてか、梟が、
『ところで、ミス・ハピネスは、現在ルナ環境における在宅育児の講座を開かれているのです。かなり好評のようですよ。ネットワークから閲覧されますか?』
「しない」
 ミス・ハピネス。顔なじみだ。高らかなソプラノで大いにハンドメイド理論を語る古風な服装の婦人。特有のウェットと慈愛に溢れる設計で有名な人形屋だった。
 ルーメンスは、がらんどうのスペースから歩み去った。

 数十分後。
 あるオートマトンの真正面に、ルーメンス・ライヴシフトは立っていた。既に梟のグラフィクス・オブジェクトは消去している。彼の姿を通して、展覧会の数多くの照明光源が、同数の影たちを床に染みつけている。
 その自動人形も、真正面から、ルーメンスを見つめている。
 ルーメンス自身の手による、ハンドメイド・オートマトンだった。
 体長は一メートル八八センチ。基礎体重は百十三キログラム及び状況により上下動。フレームワーク・デザインと基軸ソフトウェアには汎用ライセンスのものをベースとしているが、それでも完成に半年が掛かった。ボディカラーは白が基調で、全体として丸っこい体型である。関節を省いた腕の先にはケット・シー機構による吸着を可能とした柔らかな球形の手があり、四基のキャタピラが繊細かつ着実な移動を可能とする。顔立ちは丸い二つのカメラ・レンズの「目」があるだけというシンプルなもので、「左目」の下に備えられたひとつのシグナル・ライトと首の微妙な動作のみで感情を示す。
 優しい魔人、といった風情がある。
 性格設定もそのようにしている。
 名を、オリオンという。
 ルーメンスは、自分のオートマトンが大好きだった。
「調子はどうだ」と、彼は語りかけた。
 ――ちか、ちか、と。
 オリオンの左目の下の光点が輝き、作り手であり主人でもあるルーメンスの存在を、白色のオートマトンは認めた。
 悪くは、ないようだな。
 ルーメンス・ライヴシフトは、見慣れたシグナルの示す意味を認識し、
 ふと、
 革靴の先の底を、床にターンさせて、
 月例展示会のすべてを、静かに、くるりと、見渡した。

 ティアサイド・ホールの隅に設置されたブース――ここには、大勢のオートマトンたちと、人形屋たちがいた。
 幸せな場所だった――数え切れるはずもないほどの、精密さや、美しさや、熱意や、アイデアや、自慢や、暖かみや、力や、愛情や、向こう見ずさや、簡単な間違いや、ひらめきが――その他の、沢山のものがあった。
 沢山の、思いがあった。
 だが、諦念はないようだった。
 諦念を抱く者など、必要ないようだった。

 言われるまでもなく。
 言われるまでもなく、ルーメンス・ライヴシフトは、他の誰よりも理解している――自分は、自分のオートマトンには、フランツ兄妹ほどの精巧さも、マーシュビッツほどの勢いも、ミス・ハピネスほどの愛情もない。残念なことに。
 そこが、ルーメンスの限界だった。

 彼は、自らの限界をよく理解していた。

 自分のオートマトンが大好きだった。
 だから、この場を立ち去ってしまいたかった。

4.


 ――突如、視界の外から飛び込んできた小さな二足歩行の体が、ルーメンスの白い自動人形・オリオンにすがりつくように、その丸い手を掴んだ。
「わぁーっ、この子、かわいい!」
 黒い防塵マットの上でぴょんぴょんと跳ねているのは、せいぜい背丈がオリオンの半分程度の少女だった。九、十歳ほどに見える。流行のエメラルド・グリーンのセーターに白い装飾ボタンが目立つ擬似デニム生地のキュロット。少女がジャンプする度にブロンドの三つ編みが揺れた。
 「かわいい、かわいい」とまるで呪いのように繰り返しながら、オリオンの大きな手を小さな手で取って、その無表情を見上げている。
 満面の笑みが、こぼれていた。
 オリオンは白いでっぷりした体躯を巧みに動かして、少女に、ちか、ちか、とシグナル・ライトでサインを送り、可動領域の大きくはない首を頷かせて感情を表現した。
 握手では物足りなくなったのか、少女は「んー……」と唸って、オリオンの硬質のボディに抱き付いた。後ろにまとめている前髪の残りがぴょんと跳ねる。
 しばらくオリオンを抱いていた後に、少女は首を巡らせて、ルーメンスを見た。
「この子、おじさんが造ったの?」
 ルーメンスは、意外な来訪者を前に、小さく頷いた。
「ああ」
「すごい! この子、かわいいね! 変わってる! お名前は!?」
「オリオン」
「かっこいい!」
 かつてはルーメンスもこの名称を気に入っていたが、今では少しだけ後悔していた――二ヶ月前に、オリオン座方面の観測基地で『干渉』が発生し、防宙領域が拡張されたという記事を目にしてから。自らのオートマトンに、血なまぐさいイメージなど付けたくはなかった。
 時事など退いて、少女はその名を好んだらしく、何度も、オリオン、オリオン、と白色のオートマトンに名前を告げている。何かを、語りかけている。
 オリオンは、左目の下のシグナル・ライトを点滅させて、少女に頷いていた。
 ――それにしても、子どもが単独で展示会に来るとは、珍しい。
 恐らく、ティアサイド・ミュージアムそのものの一般客だろう。児童用の学習ブースや企業展示を散策している内に月例展覧会に迷い込み、出会った風変わりなハンドメイド・オートマトンたちと触れ合っている――と、ルーメンスは推測した。
 もう一度、思い切りのハグをして、体を離しながら、三つ編みの少女は自動人形・オリオンに手のひらを振った。
「オリオン、いいんだよ、うん。ありがとう……じゃあね、またね!」
 そこで、手を止めて。
 少女はきょとんとした顔で、ルーメンスを仰いだ。
 自らも気づかぬままに、彼は笑い出していた。
 少女が、黙念と見つめている。
 ――どうして、笑うの、とでも言いたげに。
「話が、できるのか」
「えっ……」
「オリオンと、言葉で話ができるのか」
 少女は、うん、と楽しげに、無邪気に頷いて、
「もちろん、できるよ! おじさんも、もちろん、できるでしょ?」
 曖昧な微笑で、ルーメンスは返答した。
 ――オリオンに、一切の言語対話機能は備わっていない。制作者のルーメンスが基幹ソフトウェアの奥底まで弄っているのだから間違いない。音声発話は勿論のこと、「言いたいこと」を言語として処理する能力すら、オリオンは有していない。
 まさしく、人形遊びか。
 子どもらしい想像力に、つい笑ってしまったのだ。
 少女に、さよならを告げようとした。
 口をすぼめて、彼女は独り言を放っていた。
「あーあっ、だから『コントラスト・セブン』の演奏なんかより、ハンドメイドの展示会の方が楽しいと思うって言ったのになあ。ミックったら、どうしてああかなあ」
 ぶつぶつ言いながら、まるで踊るような歩調で、三つ編みの少女は近づいていった。
 オリオンの右隣のスペースに展示された、一体のオートマトンへと。
「ねえ、ペリィ?」
 その、青く背の低いオートマトンの顎と思しき箇所を、指先で撫でながら。
 ルーメンスの方に顔を向けて、少女はやや自慢気に、言い放った。
「この子はね、ハイペリオン。わたしは、ペリィって呼んでる。かわいいから」
 ――ぐっと背を伸ばして、悪戯っぽくウインクして。
「わたしと、同じクラスの鼻ったらしのミックと、ジュール先生が、一緒に、造ったの。わたしもね、造ったんだよ。すごいでしょう?」

 ルーメンス・ライヴシフトは、その細かい挙動を観察しながら、オリオンの隣に展示されている、青緑色のハンドメイド・オートマトンに歩み寄った。
 四足歩行の獣型が、ルーメンスの接近を認識してゆっくりと体を向け、尾を立てる――モチーフはトラかヒョウか。大型ネコ科動物のいかつい顔立ちが、ルーメンスに静かな凝視を注ぐ。
 カラーリングやデザインは野生の気配を思わせるが、頭部から尻尾の先に至るまでの、外装のメカニカル・コンポーネント的装飾からは相反する意匠が感じられた――ギア、バネ、ゼンマイ、ネジ、ナット、シャフト。すべてが、このオートマトンの動作には無関係で無意味な装飾だ。大昔の「機械仕掛け」への、ある種の憧憬。
 側面に、少女のものと思しきひどい筆致で、大きく「PERRy(ハート・マーク)」とスプレー・タギングされている。
「面白いな」と、ルーメンスは呟いた。
 でしょ、でしょ!と三つ編みの少女は高らかに同意する。笑顔が弾けて、瞳をきらきらと輝かせていた。
 実際のところルーメンスが面白いと感じたのは、彼がこのような型の汎用ライセンスの基礎構築セットを知らないという事実だった。
 すなわち、このオートマトン・ハイペリオンは、最初期の段階から構築した、純然たるオリジナル・ハンドメイドなのだ。
 少女は、ハイペリオンの隣で自らの腰に手を当てて、キャラクターの描かれたスニーカーをつま先立ちにした姿勢で、ルーメンスを見上げている。ふふん、と鼻を鳴らさんばかりだった。
 ルーメンスは、表情を崩さない。
 少女と同級生だけでこのオートマトンを造ったのであれば、紛うことなく彼女は天才的と断言できる。だが、どうやら真相は異なるようだ。彼女が言及した「ジュール先生」とやらが一枚噛んでいるのだろう――とルーメンスは推測した。ここまで精巧なシステムを一から構築するのは、大の大人でも困難を極める。オートマトン工学をかじった教育者なのだろう。恐らく算数か理科か情報工学担当の。
 周囲を軽く仰いで、少女に尋ねる。
「先生は、ここにはいないのか」
「いないよ。ミックと一緒に、あっちの『コントラスト・セブン』のコンサートに行ってる。展示会の方が楽しいって言ったのに! ひとりぼっちのペリィがかわいそうだよ! ねえ、ペリィ?」
 少女は、自分たちが構築した自動人形・ハイペリオンに向けて、いたわるような語調を用いながら、何らかの小声での対話を開始した。
 ルーメンスの見たところ、この青緑色のヒョウにも言語機能は備わっていないにもかかわらず、やはり少女は「人形遊び」を続けていた。

 ――それにしても、オリジナル・スタイルは、「先生」にも険しい課題だったらしい、とルーメンスは冷静に判じた。
 この教師と生徒の合作オートマトン・ハイペリオンの動作を認識した瞬間から、内部ソフトウェアにありがちな問題が生じているのは、即座に理解していた――擬似筋肉への電圧調整情報解釈プロセスが、明らかにおかしい。ルーメンス程度の人形屋でも、中を確認せずとも挙動を見れば即座に分かる段階の問題だった。
 一言で断ずれば、ハイペリオンの各種動作は”ぎこちない”。
 まるでからくり人形にサイズが微妙に合わないギアを嵌めこんで、無理に動かしているかのようだ。歩み寄ってくる時に、がくり、と上下に大きく揺れることすらある。ドライヴシフト・トランスレイションの非同期的問題。
 思わず――近年の構築技法において、まことしやかに囁かれる『流行』――電圧調整プロセスに作為的なラグを混じらせることで、「オートマトンの非自然物的実在」を表現するとされる、テクニックなどと呼ばれるものが、ルーメンスの意識に浮上してしまう。
 反射的に、内心で首を横に振った――「不自然」にして、一体どうするというのだ。
 人形屋の常識中の常識――オートマトンの擬似筋肉は、外的発散における中核器官である。故に基礎行動段階に準じた精緻な流動性こそが最重要課題なのであって、その電荷モジュレーションに人為的な不具合を与えるなど、言語道断だ。挙動の美しさを損ねるばかりか、総体的な故障のリスクすら生じうる。
 馬鹿馬鹿しい――ルーメンスはこの『流行』とされる、一部の人形屋の態度に、否定的態度を有していた。
 そもそも、この緑色のネコ科動物型人形・ハイペリオンの不調は単なる調整ミスであって、流行に乗っかった意図的な構築でさえないのだが――。
 そう信じていたのが、間違いだった。

 まるで、心を読まれたかのようだった。
「このペリィの『がくがくする』のはねえ、みんなやってるんだよ」
 と、三つ編みの少女は、無邪気そのものの瞳で、ルーメンスを見つめて。
 続けた。
「……ええっとね、ジュール先生はね、こうした「不自然さ」が、これからのお人形さんの主流になるだろうって、いっつも言ってる。なんだっけ――えっと」
 ここで言葉を切って、誰かを真似るように低い声音で、
「『オートマトンは結局、『本物』には絶対になりえないから、実物再現を目指す時代は終わりつつあり、これからの人形屋は、不自然な動作を、意図的に構築するようになっていく』――んだって。わたしには、よくわからないけど――」
 少女は、ハイペリオンの躯体に歩み寄って、再びその顎を撫でながら。
 告げた。
「わたしは、ペリィが『ぎこちない動き』をするの、好きだなあ」
 妄念じみた、喧騒の残響が僅かにこだまする、ホールの床の上で。
 少女は、ハイペリオンの背を抱きしめた。もう二度と離さないかのように。
「だから」
 その、ほんの瞬く瞬間。
 ルーメンス・ライヴシフトは垣間見たような気がした――少女の瞳に湛えられた、オートマトンへと注がれる、強い慈愛の光を。
 ルーメンスが、いつか忘れてしまった、光を。
「だから、わたしが、もしこれから、ひとりでお人形さんを造ることがあったら、こうしようって、思う」
 ルーメンス・ライヴシフトと、名も知らぬ少女。
 ふたりは。
 この社会においては限りなく無関係で、それでいて、ふたりはどちらも、この展示会に来たハンドメイド・オートマトン・メイカーだ。
 輝かしいまでの静寂の光が、ふたりの間を、貫いていた。
「……そうか」
 少女の言葉は、その声音も表情も、やはり無邪気そのものだった。
 それが、劇毒だった。
「――わたしはね、『お人形さんがぎくしゃくする』のに、ずっと見慣れていたから、おじさんのかわいいオリオンを見て、すごく不思議だなあって思ったの」
 少女は、うふふっ、と笑って、ルーメンスが展示した、ルーメンスのオートマトン――白く丸い体のオリオンを振り仰いで。
「だって……オリオン、すごく動きがスムーズなんだもん。スムーズすぎるよ! ああいうの、わたし、あんまり見たことなくて。だから、”変わってるなあ”って思った」
 ルーメンスは。
 そうか、と繰り返して、小さく頷くと。
 ブロンドの三つ編みの少女にささやかな感謝と別れを告げて、再びブースの中央回廊へと、歩き出した。
 その歩調は確固としたようで、実に頼りない。
 ――まるで、肉体の中にあったすべての臓器と肉が、まるごと抜け去ってしまったかのように。

 目を凝らす必要すらなかった。
 再度、月例展示会に並ぶオートマトンたちを観察すれば。
 ルーメンスが意識にすまいと無意識に閉じ込めていた、ある事実が浮き彫りになる。
 多かれ、少なかれ。
 ――擬似筋肉の調整プロセスに『ぎこちなさ』を意図的に与えられているオートマトンは、今回の展示会の半数を超えていた。

 ルーメンス・ライヴシフトは思う。
 彼らは――かつての人形屋仲間たちは――どうしただろうか。
 遊び好きの富豪、人形構築の天才・フランツ兄妹は、『流行ってるから、面白そうだから』という理由で、安直に『ぎこちなさ』を導入しただろう。そしてやはり成功する。迷いなどせずに。
 若き修行僧を思わせるハロン・マーシュビッツは、自らの自動人形の『魂』なるものに奇怪な手法で詰問し、その返答に応じて導入の可否を速やかに決定していただろう。やはり、そこに迷いはない。
 旧時代的ドレスの婦人ミス・ハピネスであったら。是も非もない。絶対に取り入れない。彼女はある種の古風なオートマトン像の信奉者であり実行者でもあった。彼女も、迷いすらしないだろう。
 彼らには、それぞれの信念があった。
 彼らには、迷いがなかった。
 では、ルーメンスは。
 ルーメンスは。

 梟のナビゲーション・グラフィクスをコールし、人形屋の展示会からの外出およびオートマトンの展示終了に関する同意書に音声シグナルで応えて、ルーメンス・ライヴシフトはティアサイド・ホールを後にした。
 速やかな足取りだった。


5.


 わかっているのだ、このオートマトンがいかなる仕打ちを受けるか。
 わかっているのだ、このオートマトンに待ち受ける宿命を、結末を。



 日が明ける。
 日が暮れる。
 それでも、べつに、なにもない。



 ルーメンス・ライヴシフトが、ひどく古びた暗渠のようなレンタル・ガレージの端で、がちゃがちゃと騒々しい音を鳴らしながら、自らのハンドメイド・オートマトンの白い腹を開き、その内部機構をいじくりまわしている。
 彼は、それが、とても好きなはずなのに。
 煤と油と培養触媒に穢れた、その面持ちは。
 何故か、嘆かわしいような、
 何故か、困っているような、
 何故か――己が人生における致命的な過ちを、それが言わば浮遊するガスであるにもかかわらず、耐熱グローブに包まれた両手で、掴み取ろうとして、当然のごとくの失敗を繰り返しているような――奇怪なる悲嘆に、満ち満ちていた。
 彼は、それが、とても好きなはずなのに。
 好きだったはず、なのに。

 朝。
 白の擬似漆喰の壁に囲まれた、ひとつの部屋。
 サンライト・ベージュのカーテンが揺らぎ、乾いた陽光が、ダイニング・テーブルの椅子に腰掛けたルーメンス・ライヴシフトの姿を照らし出す。
 ルーメンス・ライヴシフトは動かない。
 不自然に斜めに傾いだ姿勢、生気の失せた表情、意思の光など欠片もない瞳。
 テーブルの上には、食べかけの合成食物と食器と雑用品とその残骸が散らばっている。床も同様だった。外の他の部屋も同様。
 だから、どうしたというのだ。
 ライヴシフトは、幸せの最中にあった。
 ライヴシフトは、無制の幻たちに取り囲まれていた。
 彼は、既にそれを解き放っていた。封は、とても単純で脆いものだった。破るのは、信じがたいほどに簡単だった。
 幻たち――それらは、視覚的実像に限りなく近い意識的虚像であり、それらは壁なき壁に反響する音であり、また優しく語りかける声でもあった。それらは現実を超えた現実的イデアであると同瞬間に、非現実的な異世界からこの世に現出した産物たちでもあった。それらは食せば味があり、嗅げば香りがあり、触れれば温度や高度や痛みを知覚できるものだった。それは、ライブシフトの認知する全空間を支配し、全時間を嚥下していた。
 ルーメンス・ライヴシフトの周囲にて。
 幻たちは、耳元に、囁いた――玉露の声音で。
 ――もう、いいんだよ。
 と。
 幻たちは、煌めき、瞬き、分離して、密度を無際限に増大させていった。
 幻たちは、不定形の触肢たちを優しく動かして――ライヴシフトを抱擁した。
 幻たちは、直にライヴシフトへと触れて、その皮膚を遠慮無くまさぐり、肉体の何もかもを、秩序めいた混沌たる内部へと取り込もうとする。組み込もうとする。
 もはや、ライヴシフトは抵抗などしない。
 一切の動きも声も表情もなく、すべてを幻に委ねて、埋もれてゆく。
 埋没して、ゆく。
 ルーメンス・ライヴシフトは、動かない。動くはずもない。
 彼は、幸せの最中にあるのだから。
 ふと。
 無限にさえ思える幻たちの間隙、その僅かな現実の視覚領域において――床の隅に捨てられた、ひとつの耐熱性グローブを彼は認識する。
 そのグローブは、ルーメンス・ライヴシフトという人間が、ハンドメイド・オートマトン構築において長年愛用したものだった。暗い焦痕と、落とせない穢れと、無数の細かい傷と、彼の感情に覆われていた、それを。
 彼は、まったく認識できなかった。
 夢想の大海が、知覚と記憶のすべてを、跡形もなく拭い去っていった。



 朝。
 白の擬似漆喰の壁に囲まれた、ひとつの部屋。
 サンライト・ベージュのカーテンが揺らぎ、登りつつある陽光が、ダイニング・テーブルの椅子に腰掛けた男の姿を照らし出している。



 ルーメンス・ライヴシフトは、いま、幻たちとともにある。


【完】

冬の朝の、ベンチから見える東の空は、美しくて、

 冬の朝の、ベンチから見える東の空は、美しくて、

sky

 腕時計を見る。午前六時半まであと三分と二十八秒。
 だから、どうってわけでもないけれど。

「案ちゃん。そんな、うつむいていないで~、見てみなさい、あのお空を。とっっっっっっっっっっても、きれいだわ~」
 と、先輩はいかにも彼女らしい、芝居がかった口調で、わたしに言った。
 ぼろっちいスティール製のベンチに、わたしたちふたりは並んで腰掛けている。
 膝に乗せて手に取っている本から、ほんの少しだけ視線を外して左側を見る。そこには目をきらきらさせて空を仰ぐ先輩がいて、彼女が座っている奥の辺りには、この地点が工場と最寄りの駅を結ぶバス停である事実とその運行情報を示す看板が、心もとなく立っていた。
 魔法を使ったかのように静かな街外れの一角だった。ひとつのベンチと、薄いプラスティックの簡素な屋根が覆うだけの、この小さなバス停は、工場の敷地からも若干離れた道沿いにある。道路の周囲一帯は、休耕期の畑とか稲田とか用水路とかが覆っていて、さらにその周りに、ぽつぽつと新しめのプレハブ住宅が建っている、そんな区域だった。百メートルほど遠くに見える、誰も通っていない交差点のさなかで、信号機のシグナルだけが赤から青に替わった。
 一月初旬の早朝だから当然なのだけれど、とんでもなく肌寒い。
 厚手のコートにマフラーにニット帽に耳あてと、防寒対策はしているつもりだけれども、それでも顔面の皮膚にしつこく張り付くような、遠慮のない冷たさを感じてやまない。この辺りは雪はあまり降らない。降っている地域の寒さは絶対こんなもんじゃないんだから、比較的贅沢な悩みだとも思ったりする。
 なにか動いているので、ふとそちらを見やると、隣の先輩はサンドウィッチを両手に持って、もぐもぐと食べていたので、わたしはぎょっとした。
 ハムカツとレタスのサンドだった。三枚セットの包装。パッケージを見ても、間違いなく先ほどまでわたしたちがいた工場で作ったものだった。歩ける近所には出荷先のコンビニはないので、工場の製造物の破損品あたりを何らかの方法でそのまま持ち出してきたのだろう。
 わたしが驚いたのは、湯気が見えることだった。先輩が持っているサンドウィッチは、電子レンジに入れたばかりのようにほかほかなのだ。どうして。
 つい尋ねると、「ヒートパック。非常時の発熱剤、だ~わ~」と、先輩は当然のように応えた。
 先輩はわたしより三つ上で、かなり個性的なパーソナリティを有していた。サンドウィッチの片面に指示された正確な重さの具材を盛り付けることが主な担務で、そのすさまじいまでの正確な仕事ぶりから、英語を主要語とするらしい国から来日してきたおばちゃんグループからは、「サンドウィッチ・ウィッチ」と呼ばれていた。
 まあ、魔女という表現は、たしかに似合うかもしれない――と、わたしもこっそり思っていたりする。言動も外観も、先輩はなにか魔性じみたものをまとっていた。気付いたら、いつのまにかほかほかのサンドウィッチを手に取って食べてるなんて、まさに魔女の所業じゃないか。いま着ている私服も、濃紺をベースにフリルやらリボンやらコサージュやらの装飾がごちゃごちゃとついた、わたしにはよくわからない代物だった。
 工場の夜間勤務ではめずらしい同年代の、かつ日本人の女性同士だったというのもあるだろうけれども、性格的にも経歴的にも能力的にも対象的なわたしたちは、なぜか割とうまがあって、業務上がりの時間が合う時には、こうして、この工場前のバス停のベンチに並んで、何気ない会話をしていたりする。
 わたしたちはこれから同じバスで同じ駅に行くが、そこからは行き先が異なる。先輩はローカル線で自宅に、わたしは別路線で東京方面の大学に向かう。
「おいしい、おいしいわ~」
 という率直極まる感想をつぶやきながら、先輩は何の憂慮もなしにサンドを食べ続けている。咀嚼して、嚥下している。お腹が空いているのはわかるけれど、かなりはしたない食べっぷりだった。
 わたしは、そんな先輩をちらりと見やってから、再び本に視線を戻した。
 先輩は、自らの過去のことをあまり語りたがらなかった。上京して、しばらく何らかの業務に従事していたけれど、二年ほど前にこの地元に帰ってきた、というのはいつか聞いたことがある。たぶんいかがわしい水商売だったのではないか、などとわたしは邪推したりしている。なんというか、ナリがそんな感じだもの。
「おいしかった。ごちそうさま~」
 と、先輩が言った次の一呼吸後には、ふたたびその提案の刃先がわたしに向けられた。
「ねえ、やっぱりお空が、お空がとってもきれいだわ~。とっっってもきれい。見てみなさいってば、案ちゃん。その真っ白なご本ばかりじゃなくって~」
 先輩はいつもこんな感じで、芝居っぽい口調で話す。仕事が終わってオフになると、さらにその方向性は強まる。無駄に感情のこもった、もったいぶったような口ぶり。
「お日様が昇る前のお空って、ああ、なんて美しいのかしらあ~」
 疲れのためだろう。わたしは、なんだか本の言葉がうまく頭に入らなくなってきたので。
 顔を上げて、先輩にならうことにした。

 東の空を、ふたりで眺めた。
 座っているベンチが東向きで、周囲には視界を遮るものもないので、よく見えた。
 逆に言えば、他に見るものがなかった。
「……ええ、綺麗ですね」
 と、わたしは、そっけなく同意したけれど。
 実のところ、見れば見るほどに、飲みそうになる息を止めていたのだ。

 ――空は、儚げで、幻のように美しかった。

 陽が登ろうとしている地平線近くの夢想のようなオレンジからはじまり、ほんの少しだけ登るに従って、神秘的なまでに輝かしいイエローへと移り変わって、中空のスカイ・ブルーへのグラディエーションを、ゆるやかに、かつ一切の無駄なく形作っている。
 雲のない、清廉な空だった。
 ぼんやりと空を見渡していると、 中ほどに月が登っていた。
 目を凝らす。
 確かに、それは月だった。
 今にもかき消えてしまいそうな、ほんの切れ端のような、左側だけの月だ。
 下弦。
 明日には、新月になって、本当に消えてしまうのだろうな。
「お空が、きれいだわ~。今朝は、いつにもましてきれいだわ~」
 先輩は、今にも歌い出しそうだった。
 芝居じみた彼女の語りに、そうですね、とは思うものの、あらためてそれを独自にわたしが表現する必要もないかな、と判断し、手に取っている本にふたたび視線を戻した。
 びっしりと紙面に書かれた、細めの明朝体の文字列が、目を滑る。
 ……ああ、講義を終えて帰ったら、熱いシャワーでも浴びたいな。明日はお休みだから、レポートの課題をスケジュール通りに片付けないと。それにしても、構造主義って、まるで工場の加熱セクションのパンを焼くトースターみたい……。
 わたしは、自分でもよくわからない、うすぼんやりとした思考で、そんなことを辿っていた。
 だから、なのだろうか。
 放たれた先輩の言葉が、異様に明瞭に、印象的に聞こえた。

「まるで、この世界が美しいものだって、馬鹿げた錯覚しちゃうくらい、だ~わ~」

 奇妙な穏やかさを秘めた沈黙が、しばらく続いた。
 それを破ったのがわたしであることに、我ながら驚いた。
「ええ」
 本に視線を留めたまま、わたしは、つい応えてしまった。
「それはやっぱり、馬鹿げた錯覚だと思いますよ。先輩」
「うふふっ」
 わたしの唐突な発言に一切動じず、むしろそれを待っていたかのように、先輩は楽しげに笑った。
「錯覚のひとつやふたつも、しちゃうわよ~、もう一回、見てみなさいって、案ちゃん。お空、きれいだもん」
 わたしは無言で、両手に取っていた本を、膝においた。表紙も閉じる。
 白くて厚い、そっけないデザインの書物だった。厚紙づくりの表紙の上部に、『二十世紀における哲学の系譜』という題が書かれている。割と重い。リュックサックに入れて持ち込んで、工場のアルバイトの休憩時間に読んでいる大学のテキストだった。いつも疲れるので、気付いたら読まずに眠ってしまうこともしばしばなのだけれど。
 それにしても、今日はなんだか、いつにも増して疲れが溜まっている。
「えっと」
 疲労のせいか、わたしはなにかしらの、自分の中の衝動を抑えきれなくなっていた。
「……失礼かもしれませんが、言いたいことがあります。先輩」
「な~に~?」
 わたしを見る先輩の笑顔は、無邪気だった。
 ここには。
 ここには、わたしたちふたりと、バス停と、田園地帯と、朝の空気と、空だけがあった。
 自動車の音ひとつ、聞こえない。
「まわりくどく、なりますよ」
 と、一言告げた後に、わたしは、話し始めた。
 冬の朝の空の、淡いブルーを、目を凝らして、睨みながら。
「……わたしって、先輩ももちろん知ってると思いますけど、ドジで、これまでも、まあ、さんざんでした。だからなのかな、と思います。人間が生きてる目的とか、理由とか、いわゆるテロスとか、レーゾンデートルとか、そういうのを、知りたかったんです。こんなわたしが、この世界に存在している意義が、手がかりくらいは掴めるのかもしれないと、そう思って。哲学や社会心理学を選考したのは、きっと人の精神の、心の何かを、理解する手がかりが、そこにあるかもしれない、と、そう判断した上での結論なんです。わたしは、そういう学問をもっとこころざして、考えなくちゃいけないと思うし、考えたいとも思っています。……えっと」
 ふう、と一息ついてから。
「だから、この空って、だめなんです」
 先輩の顔を、つい、ちらりと見やる。
 先輩は、喜怒哀楽の一切を消して、わたしの言葉に耳を傾けている。
 だから、わたしは続けることに決めた。
「……例えば、そうですね。夜勤上がりに、朝の空を見て綺麗と感じるだとか、温かいサンドウィッチを食べておいしいと感じるだとか、わかります。わかりますけれど、それってとても本能的な情動なんだとも、思います。悪い表現かもですけれど、きっと、それだけで生きていては、獣と一緒です。わたしたちは」
 先輩は、上着に包まれた腕をゆっくり組むと。
 「ん~……」と、可愛らしく唸ったあとに、首を傾げて、
 わたしに向けて、微笑んだ。
「よく、わかんないなあ、案ちゃん。だって、わたしたちだってケモノでしょ。頭の悪くなった猿だわ~。ちょうど申年だし。ところで年賀状来た?」
「……そうは、思いたくないです。年賀状は毎年一通も来ません」
「でもさあ、案ちゃんは、なんでそのふたつが、違うって思うのかしら~?」
 首を傾げて、両の目を細めて、微笑みを浮かべながら、先輩はわたしにたずねた。
 皮肉など、これっぽっちもない笑みだった。
「自分の生きてる目的――テロスだっけ? とかを、知ってもさあ~、お腹すいた時に、サンドウィッチ食べてもさ、どっちも、脳みそがさあ~、嬉しくなるじゃない? いっしょ、じゃないかしら?」
 先輩は、両腕をベンチに回して、背もたれに寄りかかって、東の空を見上げた。
「わたし、ばかだから、案ちゃんの話は、たぶん三分の一もわかってないけどね。わたしはね、これからも幸せに生きていたいなあ、って思うんだ。案ちゃんも、そうでしょ?」
 その声音は、清浄だった。
「……えっと」
 これは、功利主義等で挙げられる快の本質とか、いわゆる欲求構造とかの話なのだろうか。
 ああ。
 ――わたしは、どうして今、先輩とこんな話をしているのだろう、と思い始めていた。
 なんというか、無性に自分が恥ずかしく、どこかに隠れてしまいたい、と感じた。
 でも、蒸し返したのは自分だな、などとも思う。
 ひどく、疲れている。脳神経系の判断能力が鈍っているんだ。
 思考がまとまらない。
 言い訳でもないくせに、言い訳じみた口調になっていたと思う。
「そうですね、そうです。ええと……ただ、あまり、そう思いたくはないってことなんです、わたしは。だから、空が綺麗だ、と思っても、そのまま綺麗だなんて、素直に思いたくは、ないんです」
 なんだか、気まずい沈黙が始まった。
 奇妙な緊張が張り巡らされていたと感じたのが、わたしの一方的な思い込みなのかどうか、それすらもよくわからない。
 わたしの視線は、膝の上の哲学書でも冬の空でも先輩でもなく、視界にうつる田園とコンクリート製の農業用水路の連なりを、さまよっていた。先輩の方を見られなかったが、彼女はきっと空を眺めているのだろう。
 先輩の声が、ふと、放り投げたように、
「素直に、思えばいいのに」
 と、言った。
 わたしは、肩を上げて、ううん、と伸びをしてから。
「……どこか、諦めきれないんでしょうね」
 と、応えた。
 そしてふたたび、語り始めていた。
「毎晩」
 地面を見ながら。
 『二十世紀における哲学の系譜』の重みを感じながら。
「毎晩、裁断機にパンをひたすら入れて、入れ続けていて、そうしてわたし、なんとか生きてます。学費とか、交通費とか、食費とか、他にもいろいろ……。このコートは、奮発して買ったものです。……あるいは、寒さをしのいで、ご飯を食べて、眠る場所がありさえすれば、人って生きられます。そして、たまに綺麗なものを見たり、手に入れたりする。それだけでも、いいのかもしれません。そっちのほうが、もしかしたら自然な生き方のかたち、なのかも。でも、それでも、わたしは、まだ考えたいことが、考えなくちゃいけないことが、あるって思っています。だから今日も、このまま駅から大学に行って、講義を受けてきます。勉強します。それは……きっと、諦めきれないからなんです」
 風のない朝だった。
 わたしたちはこれから同じバスで同じ駅に行くが、そこからは行き先が異なる。
「そうだねえ」
 思わず、わたしは先輩の顔を見つめてしまった。
 あまりにも、その声音が優しかったから。
 屈託のない、やわらかな微笑みを浮かべて、彼女は言った。
「案ちゃんは、頑張ってるんだねえ」
 先輩の、何気ない言葉に驚いたのか、
 少しだけ、自分の声が引きつったような気がした。
「い、いいえ、頑張ってるんじゃあないんです。……ただ、本当に、わたしは諦めきれなくて、それで」
 ――掴みきれなかったものを、掴むのに致命的に失敗してしまった『何か』を、哀れにも、再び捕まえようとしていて、わたしは、しぶとくもがいている、それだけなんです――。
 それは、声には出せなくて、私は中途半端なところで言葉を弱めて、終わらせてしまった。
 視線を感じる。
 先輩は、こんなわたしの様子を眺めていたけれども、沈黙の理由を悟ったのか、あのやわらかな笑みを浮かべたまま、ふたたび空を仰いだ。
 そういえば、彼女の顔色も、疲労の影が根深いな――と、なぜかその時にわたしは思った。
 当然だ、と思う。
 先輩は、周りに語られるような魔女などではないのだ。強い集中を要する作業に半日も身を挺した、ひとりの二十六歳の生身の人間に、ほかならなかった。
 思わず。
 地平線の上に、わたしは視線を向ける。
 オレンジとイエローとブルーのグラディエーションがあった。
 冬の朝の、ベンチから見える東の空は、美しくて、

 ――それが、とにかく悔しくて、わたしは、少しだけ泣きそうになってしまった。

<おわり>

その美しく壮大なクリスマス・ツリーは、このとても、とても冷える夜の中で

その美しく壮大なクリスマス・ツリーは、このとても、とても冷える夜の中で

062

 

 ――夜闇の中。モール前の公園の中央に、美しく壮大なクリスマス・ツリーが、高く高く、そびえ立っている。光芒に惹かれ集まるのは、つがいの蛾たち。
 君と僕は、そのつがいのひとつ。

    ◆

 君は、小さな歓声を漏らした。
 吐息の白が、夜の影に消えてゆくのを、僕は確かに見とめた。

 そのクリスマス・ツリーは、「美しく壮大なもの」と口々に呼ばれる有名なものだそうだけれど、僕は直感的にあまりそう感じなかったので、少し残念に思ったりもした。
 形状は円錐型で、もみの木を模したもの。床からの高さは二十七メートル四一センチ、最大幅は直径九メートル五七センチ。
 ほぼ全面を覆うリダクト・ライト群が、今も波打つように、派手すぎない程度に、その光の色彩を様々に変容させてゆき――見る者たちを決して飽きさせない。
 ツリーのリダクト・ライトには、僕も目を見張るものがあった。近づくほどにわかった。とにかく数が多く高密度で、その発光動作パターンも繊細なのだ。
 実は、完全にある指数関数に沿う形で、このツリーの設計者たちはその数と密度を一年ごとに上昇させているらしい。
 リダクト・ライトという新式照明とその活用分野における近年の進歩は著しく、本来の技術発展から鑑みれば、もっと総数を増加させて密度を高めることも可能だという。しかし、あえてその関数に合わせた上昇速度で、このツリーに飾られる毎年のライトの数は決定される。
 何はともあれ、僕たちの眼前にあるこのクリスマス・ツリーは、年をめぐるごとに、どんどん装飾のリダクト・ライトが微細になり、美しくなるのだ。
 この辺りについての説明は、実はツリーの足元の目立たないパネルに、より簡潔でわかりやすい形で、しかしその長期的技術観測実験としてのニュアンスを削ぐような記述で掲載されていたりする。
 その説明には書かれていないのだが――野暮だから、なのだろうか――このクリスマス・ツリーの設計は、認知心理学や行動論も応用している。一般的・平均的な人間という観測主体が、どのようなツリーを認識すれば「美しく壮大だ」ともっとも本能的に感じるか、という課題を目指して。ツリー全体の適切なサイズはどの程度なのか、リダクト・ライトの色彩とその組み合わせと総体的な変色パターンは。もちろん、観測者の周辺環境との相乗効果も見逃してはならない要素だ。このプロジェクトに毎年心血を捧げる制作者たちによって、それらは徹底的に計算され、設計されたものなのだそうだ。
 ……という僕の話も、実は全部受け売りで、ツリー制作者たちへのロングインタビュー記事に書かれているのを、おととい読んだばかりだったりする。

「綺麗だね」
 と、君はその丸い瞳で、隣の僕を上目遣いに、囁くように言った。ベージュ色の厚手のマフラーに、口元までを埋めている。
 とても冷える夜だった。
 僕は、君にその動作があえて見えるように、だが不自然にはならない程度に、やや重々しく頷きながら、
 それはそうだろうな、などと冷静に思った。
 この美しく壮大なクリスマス・ツリーは、一般的・平均的とされる人間がその視覚を含む感覚器官によって受け入れる情報を、「綺麗だね」と感じるように最適化された、その果ての存在なのだから。
 ともあれ、幸運だった。
 ――豊富な知識を有していて、また頭がとても切れて、そして考える余裕のある人たちが、あたたかい義務感と、乾いた正義感と、他の何かしらの動機からか、
 君が、「綺麗だね」、と感じるように、うまく作ってくれたのだから。
 彼ら・彼女らの目論見は、たった今、君の頭蓋骨の中で、成功が確約されつつあるなあ、などと、僕は思ったりもした。
 風のない夜闇に、光芒の波がおどる。
 ツリーの周囲は、僕たちみたいな連中が大勢いた。
 家族連れもいたが、基本的には恋人のペアたちだった。衣装や細かい外観はもちろん異なるけれど、各々の行動パターンは、まるでライン上の工業製品のように同じだった。綺羅びやかで雄大なクリスマス・ツリーを前にして、その素晴らしさを、彼ら・彼女らは静かに褒め合い、身を寄せ合うのだった。それに並行する形で、各人がパートナーに抱える愛情なる概念を、隠喩的だったり詩的だったりする表現で囁いたり、あるいは肉体的行為に還元したりもしていた。

 君の横顔は、美しく壮大なクリスマス・ツリーを、陶然とした表情で眺めていた。
 来た甲斐があった。
 その一方で、僕は、お腹が空いてきたなあ、などと呑気なことを思ったりもしていた。なにか、温かいものが食べたい。昼食は多くはなかったから、そう、『グレインズ』の厚いピザとかがいいな。
 ――と、その時、ツリー設計者のインタビューの内容が、再び脳裏に蘇った。
 ああ、そうだった。
 僕らの前にそびえ立っているのは、単なる、「美しく壮大だと感じさせるために設計されたクリスマス・ツリー」ではないんだ。
 近年の、麗しい技術進歩のひとつ。
 ツリーに飾り付けられたリダクト・ライトの集合体は、その総体的変色パターンは、視覚的認識を行った観測者たちの深層心理に溶け込んで、一種の「ガイダンス」を実行する。
 その目的は、隣接するショッピング・モールの店舗群における購買活動を促すことだった。
 この構造設計までがツリーの設計者たちの仕事であり、ある側面においては、もっとも重要なこのツリーの使命でもあった。
 『グレインズ・プレインズ』の温かいピザが食べたい――などと思っている、自分自身に少しだけ、どきりとした。
 ちょうど、その軽食チェーン店は、モールの中ほどに店を構えていたから。
 無意識下の欲求誘導。
 今では別に、珍しいことでも、ないけれど。

    ◆

 ――とても信じられないことだが、かつて、人々の自由意志や選択こそがこの世界の根底であると信じられた時代があったらしい。
 言うまでもないけれど、現代においては、社会の滞りない循環と維持こそがその最大目的だ。その原則において科学技術が支える産業市場が成立し、商品たちがそれを媒介して、それを消費するために僕たちの肉体や生命が存在する。
 そして、最後にその下に置かれているのが、どうやら僕たちに付属しているらしい、意識とか意欲とか、あるいは魂とかとも呼ばれたりする、神経器官の機能――どうでもいい代物だったりする。

    ◆

 ふと、君の横顔をふたたび見やる。
 君は、クリスマス・ツリーの、ひどく幻想的な、計算し尽くされた色彩の波を見つめている。変わらない笑顔で。
 ――僕たちは、幸せに生きてさえいればいいんだよ。
 結局のところ、精神なんて、本能に支えられた、操作も誘導も切断も易しく可能な、大したものじゃあ、ないんだから。
 その観点から鑑みれば――君と僕の前に立つこの輝かしいクリスマス・ツリーは、まさに時代の寵児と言えた。衆目を集め、またその感嘆と畏敬の視線にも相応しい、この世界の象徴と呼べる存在なのかもしれない。

 そんな、まさにどうでもいいことをなぞっていた僕の思考を、意地悪に覗きこむように。
 君は、僕の上着の袖口を掴んで、
「――なにか、食べようか? 中に行って、買い物する?」
 と、告げた。
 いつもの、屈託のない、やわらかな微笑みを浮かべながら。
 僕は、なるべく君に優しい態度として認知されるように、ゆっくりとうなずいて。
 ――モールの外殻部に位置する店の、『パープル・クランチ・アンド・ドーナツ』のセットかな、などと、考えを巡らせた。あれは、君の好物だからね。それとも君は、『サーキュレイション』で、温かいスープでも摂りたいのだろうか。僕は『グレインズ』がいいけれど。
 食べた後は、新しい外套を一緒に買ったりしようか。ちょっと奮発しても、いいよね。
 今日は、とても冷える夜だから。

    ◆

 ――夜闇の中。モール前の公園の中央に、美しく壮大なクリスマス・ツリーが、高く高く、そびえ立っている。光芒に惹かれ集まるのは、つがいの蛾たち。
 君と僕は、そのつがいのひとつ。

    ◆

 二十時を告げる、巧妙なデジタル合成の鐘の音とともに。
 ふと、細やかな雪が、ツリーの周囲一体に、降りだした。
 今日は、クリスマス・イヴの夜で、この公園は北半球に位置していて、クリスマス・シーズンは真冬にあたるから、今は冬の夜だから。
 僕たちは、ふたたび、クリスマス・ツリーを仰ぐ。
 君が僕に向けて、何かを言って、微笑んで、
 僕も、何かを告げて、笑みを返した。

 接触した物体を過度には濡らさず、
 しかし本能的に違和感のない程度に調整された、雪の舞う夜の中で、

 ――君と僕は、ささやかなくちづけを交わした。

 今夜は、とても冷える夜だから。
 この血と肉のすべてに滲み渡って、もう二度と、永遠に失せることのないような、とても、とても冷える夜だから。

 【完】