雨のあと

 雨のあと

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 カウルは、尖塔の天使だった。

 尖塔の天使は、「尖塔」と呼ばれる超巨大建造物の内部で活動し、その労務を全うするために生きる人々の総称だった。ある一面において説明すれば、天使たちは尖塔で産まれ尖塔で死ぬ。また、ある一面においては、全人口の約三割と定められた社会的必要人員とされており、また、ある一面においては、社会システムに貢献する「神聖なる」人々であって、また、ある一面においては、受精卵選別以前の無作為抽出の落とし子だった。
 つまり、カウルは尖塔の天使である必要など、最初からなかったのだ。
 けれど、彼は実際、現在、その総人口が六億に及ぶとされる、尖塔の天使のひとりだった。
 その末端だった。

    ◆

 あまりにも突然の声だったので、驚いた。
「なに、見てるんだ」
 と、声を放ったブロンが、カウルの背後に立っていた。

 月明かりが、圧縮睡眠室の小さな窓から差し込む、静かな夜だった。

 窓の前に立つカウルが、ブロンに振り向いた。
 おぼろげな月影が、硬い床の上で踊った。
 脊椎接続された神経調整用ケーブルが、カウルの尾骨のあたりから、床にだらりと垂れている。動物の尾のように。ブロンも、他の天使も同様だ。
 尖塔の天使たちは、この圧縮睡眠室においては、衣服の何もかもを着けない。その必要がなかったからだ。室内環境は適正に保たれているし、不要な菌の一匹すら決して通しはしない。

 あくまで落ちついた声音で、ブロンが、繰り返した。
「カウル、なにを見ている?」
 ブロンは、カウルより生育期間が一年長い。体格は痩せっぽちのカウルよりもずっとがっちりとしていて、その表情筋は「なにか外に面白いことでもあるのか?」と告げていた。
 夜闇の中で、ブロンの両の眼は、奇妙な熱気を残しているように見えた。
 数夜に一夜、ある仲間内で楽しまれる「賭け事」の帰りのようだった。なにを研究するでもない「研究室」なる尖塔のあるエリアで、そうした行為がなされている。すべての天使の上腕に着けられた労務自立支援機たちが、賭けのような禁止行為を見逃すはずがないのだけれど、なぜか何も警告しないのも、カウルは知っている。
 賭けの対象は、参加者の「想像上のコイン」である。
 前述のとおり、そもそもギャンブルなど天使のルールでは厳禁だった。徹底的な使用制限のあるクレジットは使用できるはずもないし、労務に使う道具などを担当エリア外に持ち込むことは尖塔中のセンサー群が決して許しはしない。代わりに髪やら爪やら血液やらの天使の肉体の一部を扱うにしても、尖塔は肌の表皮一片すら無駄な存在を許さず、すべて浄化水槽と熱風で洗浄してしまうから、結局頭の中の、皆の想像の中のコインを賭けるしかないのだという。
 カウルは、そうした天使の賭け事が好きではなかった。妄想のチップを肴にスリルを享受して、それが一体、どうなるというのか。なにを生むというのか。
 ブロンが、ずい、と歩み出て、カウルの隣に立った。
 カウルの触覚と嗅覚が、ブロンの存在をわずかに感じ取った。
 カウルは、他人の体温があまり好きではなかった。

 横に並んだ、カウルとブロンの視界。
 圧縮睡眠室の小さな複合ガラス窓の奥は、
 星の見えない、本物の夜空と、満月に近いおぼろげな月と。
 「駅街」の、尖塔よりもずっと低い建築物の群れが、地平線まで、ひたすらに存在していた。
 地をうごめくように、それぞれの建築物固有の光芒を、わずかに漏らして。
 カウルは、「駅街」を、そこに生きる人々についてを、よく知らない。すなわちそれは、尖塔の天使の大半が知らないことを意味している。
 ただ、尖塔の天使の無作為抽出に漏れた、「祝福されざる人々」が、その生を営んでいる、と教えられている。
 「不要な感情と、欲と憎悪に穢れた、悲しき街」なのだという。

「僕は、」
 カウルは、最小限の言葉を扱うために、一度言葉を区切った。無用な言葉を人に使うのは嫌いだったし、そう教育されてもいるから。
「僕は、あれを見ている」
 右腕をゆっくりと持ち上げて、広大な街の中の、ある一点を指差した。
 カウルの上腕に装着された労務自立支援機――人間のそれらなどよりも圧倒的に優れた各種センサー群が、装着した労務支援対象者の、何もかもを見て、知って、記録して、考えているのだという――が、月光に映えて、僅かにきらめいた。
「――ん、」
 ブロンが、カウルの指さす方向と「駅街」の光景を交互に睨んでから、じっと街を見つめて、
「……あれか? あそこの、白茶けた建物の左にある、道路の上の、赤っぽい、絵。えっと、ロード・アート・グラフ、ってんだっけか?」
 カウルが、ブロンに振り向きもせずに、ゆっくりとうなずいた。
 ――女だな、若い女だ、好みじゃあないがね、
 と、ブロンがつぶやいている間も。
 カウルは、じっと、それを見つめている。

 カウルの視線の、遥かに先にある、終着点――広大な「駅街」の隅の裏路地に存在していたのは、抽象的なタッチで描かれた、ひとりの人物のロード・グラフだった。
 隣に立つフランチャイズ・ホテルの、過剰なまでの照明の一端が、その小さくはないグラフィティを照らし出していた。
 黒いアスファルトの上に、描かれていた。

 ブロンの言うとおり、それは「若い女の絵」だった。
 ただ、少女という表現が、より正確であろう。
 古風じみた純白のローブを、その薄い身に纏っている。揺れる鎖のネックレスの蒼い宝石の光輝が、整った顔立ちを照らし出していた。栗毛色の癖っ毛が空気の流れに揺れる。そして周囲を彩る、橙色の刺々しい炎。
 死を暗示するような火炎の渦に飲まれながら、
 絵の中の少女は儚げな表情で、ここではないどこかを見つめている。

 カウルが知るはずもないが、この一枚の絵の制作に使用されたのは、七色の溶剤型アクリル絵具と、スプレーガンと、ささやかな技巧だった。
 特に社会的価値があるわけでもない、「駅街」においても風紀取り締まりの対象となる、簡潔に言えば「くだらない落書き」だった。描いた人物の正体や、その絵に込められた意図なども、もちろんカウルが知る由もない。
 昨晩に、窓の外の「駅街」を眺めていると、見つけた。
 ただ、それだけだった。

 二十呼吸ほどの、沈黙ののち。
 カウルが、
「きれい、だと思う」
 と、言い放った。

 隣に立つブロンの、やや訝しげな視線を気にもせずに、
「僕も、ああいうのを、いつか、描いてみたいと、思う」

 ――言葉は、最小限に控えようと思っていたのに。
 そう教育されているのに。
 止まらなくなってしまっていた。
 話しながら、カウル自身が信じられないでいた。

「……こんな感情は、生まれて初めてなんだ。あれを見て、描いてみたいと思った。僕は、尖塔の天使で、だから、何も、何も知らないけれど、どうやって描いたのかも、描いた道具についても、それをどう学ぶのかも、さっぱりわからない、けれど、あの絵のようなものを、描いてみたいと、思ったんだ。どうして、僕が自分がそう思うのかもわからない。でも、いつか、ああいった絵を、描いてみたい」

 闇と静寂の支配する、圧縮睡眠室。
 おぼろげな月が陰影を生む、ふたりの天使の神経調整用ケーブル。
 小さな複合遮断ガラス窓の先の、遥か下界の街の片隅の、一枚の少女のロード・グラフ。
「……よく、わかんねぇや、俺には。そういうのは」
 と、はにかみながら、ブロンが言った。
 ――だがまあ、いつか描けたら、教えてくれや。できれば、もっと可愛らしくて、よくわからん服飾品とかのないハダカで、あともっと、本能に訴えるモノならいいなあ。へへ。
 ブロンは話しながら、眠たげになった目をしばたたいて、自らの圧縮睡眠チェンバーへと去っていった。彼の尾骨あたりから伸びる灰色の神経調整用ケーブルが、ずるずると床を這い、影の中に溶けていく。
 その間も、ずっと、ずっと、カウルは、「駅街」の隅にある、ひとつのアート・グラフを、見つめている。
 おぼろげな月が、圧縮睡眠室をかすかに照らしていた。

    ◆

 それから、ある程度の時間が過ぎて、
 カウルは、ある程度の努力を積み重ねて、
 その間に、ある程度のことを、学んだ。

 そして、一度、激しい雨が降って、止んだ。

    ◆

 その夜は、果てなく暗かった。

 圧縮睡眠室の小さな窓辺に、ひとりの、痩せっぽちの尖塔の天使の姿があった。

 天使は。
 カウルは。
 例のロード・アート・グラフィティを、
 いや、
 それがかつてあった、「駅街」の単なる裏路地の一角を、
 眼を見開いて、じっと、見つめている。
 
 かたかた、と。
 その裸身が細かく揺らいでいることに、彼自身も気がついてはいまい。

 かつてから、
 うっすらとは、わかっていたのだ。
 わかっていた。

 結局、
 ロード・アート・グラフィッカーは、「駅街」のありふれたうるわしい生育環境と、専門のテクニカル教育と、同等もしくはそれ以上の技巧を有する仲間や友人たちと、尖塔の天使よりもはるかに縮小された労務に囲まれた、単なる「神聖ならざる、駅街の一般人」にすぎず、
 しかし、ただ、カウルは、
 カウルは、
 尖塔の天使で、
 これからも、
 死ぬまで、
 ずっと、
 だから、

 ひとりの尖塔の天使が、高い高い尖塔の中ほどにある、暗い圧縮睡眠室のひとつの小さな窓から、「駅街」の裏路地の、何もないアスファルトの路面を、じっと、見つめている。

 カウルの視線は、かつてのそれとは、一線を画していた。

    ◆

 この断片的な物語の、なにもかもの、間。
 ――その一機の労務自立支援機は、自らの労務支援対象者である尖塔の天使、すなわちカウルを、常に、観察していた。彼の右上腕において、持ちうるセンサーの、すべてを惜しみなく使用して。
 実に、つまらなかった。
 支援機は、とっくに結論を出している。
 ありふれた話だ。
 カウルが羅患した一種の精神的異状は、彼の年齢が比較的幼い故に発生しうる、これもまた、実に普遍的な状況なのだった。カテゴリーとしては、「問題」ですらない。
 対策は、簡単だった。
 ただ、待っていればいい。
 いずれカウルは、一機の労務支援対象者は、彼が精神的異状を催したもっとも大きな一因と思しきロード・グラフの、委細の形状を、かならず忘却するであろう。雨に消えたロード・グラフの周囲にあった炎の棘の先は、一体何本だったろうか? 少女の首元のアクセサリーをつなげているのは、紐、あるいは鎖だったか? さらにもうしばらくすれば、カウルはその色彩すら忘れてゆく。少女をとりまく炎の渦の色は、あざやかな赤だったろうか、もっと青みがかっていたか、あるいは黄色に近かったか? いずれ時が経てば、いずれカウルは、少女の顔を忘れるであろう。その表情は微笑んでいたか、無表情だったか、あるいは怒っていたのか――? そうして、何もかもを忘れてしまうまでに、さほど時間は掛かるまい。そこに少女のロード・グラフがあったことすら、いずれカウルは忘却する。材料は揃っていた。既に機体は演算を終えている。ロード・グラフの存在が、カウルの大脳の表層記憶処理体から失われるまでに、212日プラスマイナス93日、確度100パーセント。
 絵を描こう、などという無益な意欲も、やがて同様に消滅する。
 終わりない尖塔の労務の中で、義務の数々と圧縮睡眠と無意識下の神経調整の中で、この尖塔の大いなる渦の中で、すべては忘却の彼方へと沈んでいく。いずれカウルは、より熟練された、より従順かつ能率的な天使に羽化するであろう。かならず。
 労務自立支援機の思考は、リアルタイムに解釈プロセスが連動する「尖塔」の中央演算システムのそれでもあった。
 この類の事例には、「尖塔」の永い歴史においても、ことかかない。
 平常運行。
 持ちうるセンサーの、すべてを惜しみなく使用して。
 労務自立支援機は、自らに割り振られた対象である、ひとりの天使を、観察している。

    ◆

 その夜は、果てなく暗かった。

 ひとりの尖塔の天使が、高い高い尖塔の中ほどにある、暗い圧縮睡眠室のひとつの小さな窓から、「駅街」の裏路地の、何もない、何もないアスファルトの路面を、じっと、見つめている。

 【完】

「ある夜、テーブルの上で、のねずみと盃を交わす」

ある夜、テーブルの上で、のねずみと盃を交わす

 

「孤独に乾杯」
「孤高に乾杯」

 私と、のねずみは、盃を交わした。
 とはいっても、私とやつとでは、あまりにも背丈が違いすぎる。
 私は人間で、やつはのねずみなのだ。
 「盃を交わした」というのは、まあ、両者の思いの中の概念というか、言葉限りというか、そういう感じの表現である。

 ともあれ、私と、のねずみは、盃を交わした。
 この部屋の中で。
 同じテーブルに隣り合って。

 

 表面加工されたテーブルの上ののねずみが、鼻先をくんくんとさせている先には、揺れる紅い液体の粒があった。
 やつが、かっさらってきた一粒だ。
 やつが言うには、街の古びたワインセラーの奥底から、だそうだ。これもどこかからちょうだいしてきた吸水性のペーパーに染み込ませて持ってきたらしく、のねずみによれば、「香りでうまそうなのを選びに選んだ」という。
 まったく、のねずみのくせに。上等だなあ。

 対する、私の方はというと。
 ――さきほど電子レンジで一分間温めたばかりの、百二十ミリリットル程度の、安っぽいコップに注がれた白い液体だ。それが他ならぬ、私の盃だ。
 ホットの低脂肪牛乳である。
 眠る前に、私はこれを飲むのが好きだった。

 私と、私の隣にいるのねずみ。
 のねずみのやつは、なんだか知らないけど上等品と思しきワイン。
 私は、一リットル百十円の低脂肪牛乳。
 ともあれ。
 盃は、盃で。
 今夜は盃を交わす夜で。
 私と、のねずみのやつは、もう乾杯を終えていたのだ。

 それぞれの液体に、それぞれが口を付けてゆく。
 ワインの雫の大部分を一気に飲み込んだのねずみのやつは、とてもことばにしきれないような、満足の吐息を漏らした。
 隣の私は、ちびちびと、摂氏四十度くらいに温めた低脂肪牛乳を飲んでいる。

 ちょっとだけ、のねずみのいる辺りから、アルコールの匂いがただよったような気がした。思い過ごしだろうか。いくらなんでも、粒が小さすぎるからなあ。
 のねずみのやつと違って、私はあまりアルコールは得意じゃないんだ。あたりまえだけど、お酒はアルコールの味がするし、酩酊の感覚も決して好きとは言えなかったりして、単でそれが好みの問題で済めばいいのだけれども、エチルアルコールが一種のコミュニケーションツールとなりえるような場においては、それはそれで色々と困ったりするのだ。
 のねずみのやつは、私のその辺りの微妙な感情をよく知っているので、あえて言及とかはしない。
 気が利くやつでもあるので、全然違う話題を出して、私が感じ始めていた距離感を埋めたりしてくれる。

 新しいワインの粒から口を離して、のねずみは私に言った。
 はっきりとした、声音で。

「孤高はすばらしいものだな」
 私は、答えた。
「孤独は悲しいものだよ」

 ――いつのまに、どこから持ってきたのだろうか。
 のねずみのやつは、スナック菓子の欠片と思しき白っぽい塊をかじって、口を丸くしてもぐもぐと咀嚼している。
 ごくりと飲み込んでから、私に告げた。

「悲しいと思うから、悲しいんだ」

 ――その意見は、いくらなんでも乱暴で大雑把だなあ、と思ったので。
 私は、実に安っぽい、実際安価だったコップをテーブルに置くと、のねずみに言い返した。
「悲しいものは、悲しいよ」
「どこが」
 と、のねずみが私にたずねる。

 私は、少しの間考えてから。
「……ええと。そうだねえ、孤独は……」
 ……よくまとまらない。
 もう少しだけ、考えてから。
「……孤独そのものも悲しいのだけれど、私はね。自分からね、どうしても、それが中々『剥がれないもの』なんだって思う。私の場合は、その原則を思い出すと、悲しい。自分は、ひとりなんだって思う。これからも、ずっとひとりなんだって。些細な、外から見れば、どうでもいいことなんだろうけど、時折ね、『私は孤独じゃないのかも』って、勘違いすることがあるんだよ。勘違いなんだけどね。勘違いだから、それがただのばかげた勘違いだったことに気づいて、やっぱり自分は孤独なんだって分かって。その孤独は、どこかでくっついちゃったガムのように私にべったりついていて。私からずっと剥がれないことを思い知る時もあったりして、特にそれがね、とても悲しい。私は、いつまでも、根本的にひとりなんだなあ、って思う。ええっと……」
 ええっと。
 ――そういうことを、話せばよかったのだろうか、などと、今更私は思い出す。
 ふと、自分が思うがままにしゃべりまくっていたことに気づいて、やや恥ずかしくなってきて、テーブルの上ののねずみの方を見た。
 のねずみは、また新しく絞ったワインの雫に、口元をくっつけていた。少しずつ啜っているらしい。音はしないが、口のあたりをせわしなく動かしているのが見えた。
 ――私の話、聞いていたのかなあ。

 やや冷めはじめた低脂肪牛乳を、私がなんとはなしに飲んでいると。
 まったく、
 その予兆など一切なく、
 私の隣、テーブルの上で、小さいのねずみのやつは。
 私に向けて、ゆっくりと、言い放ったのだ。

「それでも」
 口元を、頭部全体を大きくかしげて。
 私を。
 のねずみは、私を見上げて。
 その二つの瞳で、まっすぐ私を見つめて。
「ひとりは、すばらしいものだ」

 

 ――ふと、時間が、揺れたようだった。
 次の瞬間には、のねずみは、私の前からいなくなっていた。
 人語を話すのねずみそのものはもちろんのこと、やつが啜っていたワインの紅い一滴も、それを染み込ませてきたというペーパーも、かじっていたはずのスナックの欠片も、何もかもが、私のテーブルの上からは消えていて、
 まるで、のねずみなんて最初から存在しなかったようで、

 

 ……低脂肪牛乳の残滓を帯びた、交わされた盃などではない、安っぽいコップを持つ、私だけが。
 私ひとりだけが。
 この部屋に、残されていた。

 (終)

演算回路な与太話

 演算回路な与太話

 意義が全然ないので誰も触れないような辺境のネットワークに接続して、古い古いデータベースを手繰っていると。
 たまに、中々に興味深い与太話が見えてくる。
 その中の一つに突き当たった。
 「人間の時代の人間は、今よりずっと弱かった」。
 そんなはずはないだろうが、とジグは演算回路の中で反射的に思う。
 安直極まりない暗号障壁をずかずかと突破しながら、古い古いデータベースの残った断片から、ある程度の記述がまとまったものを端から抽出して、ジグの思考でも直接認識可能なコードに転換していく。
 いわく。
 「昔は昔、人間の時代がロボットの時代に差し替わる頃に、いくらなんでもロボットが強くなりすぎて手に負えなくなってしまったので、人間は自分たちを強くして対応しようとした」。
 面白い与太話もあったもんだなあ、とジグは思ってから、それからチェアの上で首の関節部をぐるりと一周させる。それが彼の癖だった。
 もうちょっと読んでみよう、と探索の電子の手を巡らせるも、ネットワークのどでかい断層に辿り着いてしまった。この辺のノード周りはあらかた調べつくしてしまったし、別のポイントまで移動するための経路を再構築するのが癪だ。時間がかかる。
 辺境のネットワークへの接続を止める。
 骨董品そのものの変換コードを古めかしい変換専用集積回路と比較的新しい変換コードどもで数珠繋ぎにして自作した、妙ちきりんな形状の合成コードを、ジグは腹側部のプラグから引っこ抜く。堅牢性保持のために各パーツの接続部はガムテープでぐるぐる巻かれている。
 古い古い与太話の欠片から、ジグは考え直してみる。
 えっと、つまり、こんな感じか。
 ――はるか昔、人間の時代。人間は恐ろしく貧弱だったから、強いロボットを作って、その力に頼ろうとした。だが、いつまでも黙々と人間に付き従うロボット連中ではなかった。ある瞬間、自律回路が火を吹いた! ロボットの反乱である。弱い人間たちはひどい返り討ちにあって、生息数をがつがつと減らしていった。
 そんな彼らが辿り着いたのが、「自分で自分を強くして」、ロボットの優れた能力に対抗しようという手段だ。どんな手法なのかは知らん。だがその試みも結局は何らかの限界にぶつかって、人間は完膚なきまでにロボットに打ち負けた。
 そして今、この世に生きるアリスを含む人間は、「強くなった人間」の末裔なのだ――。
 ……うさんくさいんだよなあ、と思う。
 まず、ロボットの思考能力が反乱を企てるほどに発達していたのなら、おいおい飼い主の人間は「反抗したい気持ち」の辺りを全然制御下に置いていなかったのかよ、となる。一、二体、あるいは百、二百体は制御の見落としがあったと考えてみよう。だがロボットの全員が片っ端から、ある日突然始まった『反乱』に加担するだろうか? そもそも人間に従属することを目的とされた人間の時代に、ロボットが人間への対抗心なんて起こすものか? 人間がロボットより強い今だって、そんなことないぞ。
 廃墟の地下の隅にある部屋。天井まで積もったガラクタどもの隙間の、奥の奥底に隠されたプラグから合成コードを抜いて、ジグはリュックサックの専用ポケットにまとめていく。そろそろ支度の時間だ、と体内時計を鑑みながら、ジグは思う。
 中々に興味深い与太話で、一見筋が通っているように思える。こういうのがあるから古代のネットワーク探索はやめられない。
 だが、それだけの与太話だ。

開幕前

開幕前

 

 テクノロジーの進歩は、驚くべきほどの利便性をもたらしたっけ。
 こんなところでも、恩恵にあずかることができるんだもの。

 はい完成。
 楽屋に備え付けられた縦長の箱――汎用の外観翻案機は、可能な限りの速度において、中に入った私の姿を、まさしく頭から爪先までの衣装やら装飾やらから、メイクから髪のセットまでを――徹底的に、ネットワークに保存された情報をもとに、変貌させていった。
 姿見を前にして、私はふと「紳士の頬笑み」を作ってみる。
 うん、いつも通り、完璧だ。
 私はすっかり、「いかれた紳士」という、コントのためのキャラクターの姿になっていた。何もかもがちぐはぐな丈の、滑稽な色合いの服装。ぼけた緑色のレンズの片眼鏡、大昔の音楽家のようなヘアスタイルの上に、冗談のようにちっぽけなハット。
 トレードマークである紅い扇を、ぱちん、ぱちん、と左手の指だけで開閉させる。うん、いつもと同じ既成品だ。

 ――私たちがやりたいのって、こういうのだったっけ?

 

 私は、コンビの片割れだった。
 私とランちゃんは、いつも一緒。
 大学の演劇学科に入りたての頃に、偶然席が前と後ろで、すぐに意気投合したんだっけ。最初に盛り上がったのは、何の話題だっけかな。さっきまで行われていた演劇理論の授業の内容を、「通俗的に過ぎる」とか言って、笑ったんだっけ――。

 そんなことを、ぼんやり考えていると。
 他ならぬ私の相方、ランちゃんが楽屋に来た。
 普段通り、きらびやかそのものの自前の衣装を身にまとって。

 お互い、結構歳はとったけれど、今でもランちゃんはかなりの美人だ。対して私は太っちょだし、まあきれいではない。それでも、「外観翻案プロトコルの更新がほとんど必要ないんですよ~」とか、笑い話のネタにしたりすること程度はできる。

 

 ランちゃんは、
 ライト・コーティングされた艶やかな床を、すた、すた、と、せわしいように歩きながら。
 横目に、ちらり、と見る。
 先駆けて「いかれた紳士」の姿になっていた私を。
 視線が重なる。
 だから、私は、「紳士の頬笑み」で応じた。
 ――どうかな、完璧かなあ?
 ランちゃんは、無表情で通り過ぎる。
 そして、私は、「紳士の頬笑み」を止める。
 ――もちろん、完璧だよね。
 それが、いつもの光景だった。

 

 ランちゃんは楽屋を横切って、放るように鞄を置くと、無言でまっすぐ、外観翻案機へと入っていった。
 私はあまり好きな色合いではない、長いスカーフの端が、翻案機の中に消えた彼女を追って、ゆらりとたなびいた。

 かつての、困窮時代に。
 ランちゃんが、「一点だけの贅沢だからね」と愛用していた紫の柄のスカーフは、とっくの昔に棄てられて、はるかに高級なものと取り替えられて、それも今の彼女を埋めるように取り巻く、きらびやかな服飾品たちのひとつに過ぎなくなっていた。
 私は、あの紫のスカーフ、好きだったんだけどな。

 ランちゃんが入っている外観翻案機のささやかな音が、楽屋に響きわたった。
 ふと、彼女がテーブルに置いた鞄を見やる。
 また新しいブランドにしたんだね。
 お金は儲かったなあ、と思う。
 私たちの「紳士とオートマトン」の芸がヒットしてから、衣食住の何もかもが、あっという間に、劇的に改善されたんだっけ。
 ――それまでは、二人ではいくらなんでも手狭すぎるようなアパートの一室に無理やり住み込んで、それでも家賃の滞納で追い出されそうになるのもしばしばで。
 一体何度、大家さんに平手をついたっけ?
 大家さんが実は寛大なおじいさんで、とても助かったなあ。
 今はもう、この世にいないけれど。

 

 楽屋の壁の一面に投影されていた環境映像の端の時計が、視界に入った。
 午後六時三十七分、と表示されている。
 私は、思わず口の端を歪めて、笑った。

 二人で一生懸命、考え過ぎるほどに考えて、練習も繰り返した前衛演劇が、全然鳴かず飛ばずで。舞台を点々としていた頃。
 「ランちゃんのファン」を自称する厄介なおじさんを、対面した私が説得して留めている間に、ランちゃんがどこかから持ってきたポリバケツの汚水を二階のベランダからぶちまけた光景は、今でもこの瞳に焼き付いている。
 気が触れたような怒鳴り声。陽が落ちる前の、迷路のような裏路地を、二人でひたすら逃げまわったっけ。ランちゃんは走りながら、実に楽しそうに笑っていた。
 がむしゃらに逃げまくった挙句、私たちが公園の中で立ち止まって、大きく息をついて。
 ふと時計台を見上げたら、針が示していたのは午後六時三十七分だった。

 ……まったくどうして、今、こんなことを思い出しているんだろう、私は。
 それにしても、懐かしいなあ。

 

 思わず笑みを浮かべていると、外観翻案機による完璧なセットを終えていたランちゃんが、私の前に立っていて。
 私を、見ていた。
 疑問ですらない。
 感情の、まったく見えない視線で。

 

 ……お互い、歳はまあとったけれど、確かに私の目の前に立つ「愉快なオートマトン」の仮装をしたランちゃんは、裏路地で変なおじさんにバケツの汚水をぶちまけていた、あの頃のランちゃんと同一人物だった。同じ背丈だし、メイクの下は同じ顔をしているし、あとは、喋り方とか、なにかを観察する時に少しだけ顔を下げて上目遣いになるところとか、何よりお酒が好きなところとか、ひたすら男運が悪いところとか、他にも、他にもたくさん。

 ただ、こういう表情は、かつてのランちゃんは、していなかったかもしれない。
 もう、よく思い出せないけれど。

 ……大人になるって、こういうことなのかしら。
 なんちゃって、ねえ。

 ――ところで。
 私たちがやりたいのって、こういうのだったっけ?

 

 突如、重い音声のあつまりが、鼓膜を揺らして、私の心を弾ませた。
 期待を含んだ観客たちの声が、わずかにこの楽屋にまで響いてきたのだ。
 さあ、いよいよだ。
 開幕は近い。

 私は「いかれた紳士」で、ランちゃんは「愉快なオートマトン」。
 あっという間に、こんな姿になった。

 テクノロジーの進歩は、驚くべきほどの利便性をもたらしたっけ。
 こんなところでも、恩恵にあずかることができる。

 ありがたいことに。
 とにもかくにも、私たちの行う会話コメディ劇は、今でも市井の人々に大人気なのだ。
 明日も明後日も明々後日もやの明後日も、スケジュールはぎっしりと埋まっている。
 私たち二人は、予定された街という街をどんどん移動していき、お客さんにコントを見せる。その楽屋の外観翻案機で、「いかれた紳士」と「愉快なオートマトン」の仮装をして、いつも通りの内容の会話劇を披露する。お客さんは大受けで、沢山の料金が集まって、私たちはその一部を預金残高としてもらう。

 

 私は、「紳士の笑顔」を浮かべながら、斜め後ろの「オートマトン」のランちゃんに振り返る。

 ランちゃんは、
 まるで、死んだような表情で、
 本物の、おんぼろのオートマトンよりも生気のない瞳で。
 どこかのなにかを、見ている。
 ここにはない、なにかを。

 

 ……ねえ、ランちゃん。

 私たちがやりたいのって、こういうのだったっけ?

 (終)

第二校舎は冷えるから嫌

第二校舎は冷えるから嫌

 

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「ここ、動かしますかねぇ」
「いや、もうそこは私がやったから」
「じゃあ、動かしますね!」
「だから、やったってば」

 

 放課後。
 第二校舎の、工作室。
 私と杉街さんは、二人で作業を続けている。
 たまに授業で使う時はそうでもないのに、二人きりだからか、今は不気味なまでに広く感じられた。
 電灯は点けていないので、工作室は若干薄暗かったが、作業するのに支障はなかった。
 木の匂いがする。
 私と杉街さんは、挟んで向かい合う形で、「二枚目の展示板」を補修工作していた。
 私たちが所属する美術部が、来週開かれる学校の文化祭において、自分たちの作品を展示するために利用する、木製の自立するローラー付きの板だ。
 本来、美術部が文化祭に扱う展示板は一枚だった。
 しかし、先輩たちが揃ってかなり大きな作品を描いてしまったので、展示板のスペースが足りなくなったのだ。急遽、古ぼけた展示板を補修する形で使用することになった。
 私と杉街さんの二人の画を載せるための展示板なので、私たちが放課後にこしらえている、というわけだ。
 設計図や材料は用意されていたし、決して難しい作業ではなかったが、若干の時間と手間はかかる。
 時間がかかるのは構わないが、帰りに雨に振られたら嫌だな、と私は思っていた。

 

 ――私たちが現在行っている展示板の補修工作について、簡単に手順を説明しておきたい。
 まず、持ち出してきた古い型の展示板を、工作台の上に横にして載せる。
 足の金属製のローラーが錆びてほとんど動かなくなってしまっているので、これを新しいものと取り替えてやる。
 掃除をする。
 次に老朽化した支柱も取り替える。
 工作台から降ろす。
 前後の表面の壁紙を張り替えて、見かけを綺麗にする。
 「美術部 展示」などと印刷されている用紙を左右箇所に画鋲で留める。
 あとは展示エリア近くまで運んだりもするが、補修工作そのものについては以上の手順で完了する。
 支柱を取り替えるのが、やや厄介だった。

 

 第二校舎は確かに冷えるな、と私はこの学校に入学して以来初めて思った。
 私たちが今いるこの場所は、とりあえず『第二校舎』と定義されてはいるが、半世紀以上前に建てられた旧校舎の一部を解体せずに残し、授業の一部や部活動に転用している――という、やや微妙な立場の建築物だった。
 本来私たちが部室として使っている美術室は、第一校舎の三階に位置しているのだが、この工作室は一階にある。
 わざわざ私たちが工作室に来て作業しているのは、その利便性と、文化祭における美術部の展示エリアへの近さからだ。
 埃がかった壁掛け時計を見れば、午後六時半を過ぎていた。
 「第二校舎は冷えるから嫌」。
 それが生徒たちの定評だった。
 確かに、この部屋に満ちる空気には、独特の冷たさがあるように感じた。
 この旧校舎の一部は、新校舎の北側に存在し、かつ背丈が小さいために、陽光がほとんど当たらないのだ。老朽化が進んでいるために、隙間風がしばしば肌を撫でる。
 ふと、窓に視線を向ける。
 窓枠が切り取る空は、乱層雲の暗い色を湛えていた。雨が降るのかもしれない。
 半袖でいると鳥肌が立ちそうだった。
 昼間の授業中は汗ばむくらいの陽気だったのに。この五月は気温変化がやけに激しいな、と思った。

 

 ――立て直した展示板の前後に、新しい壁紙を糊付けしていく。
 私と杉街さんは、向き合う形で、黙々と作業を続けている。

 

 杉街さんは、小動物じみた顔立ちと、小柄な体格がマッチする女の子だった。
 あまり得意な相手ではなかった。
 同い年の一年生なのだが、何故か私を含む同級生に対して先輩相手のような敬語で話す。
 しばしば笑顔を浮かべていて、一見は可愛らしい。
 だが、そもそも何故笑っているのか、何を考えているのか、その肝心要の所が良くわからない。
 個人的には、杉街さんの笑顔を無機質なものに感じて、若干怖いな、と思う時がある。他の人に言ったことは、まだないけれど。
 性格についても、若干ピントがズレているような所があり、そこも可愛らしいといえば確かに可愛らしいのではあるが、そうでない不気味さを感じることも、私はあった。
 画はとても綺麗だった。
 私などにはとても真似できないような、彼女は繊細な画を描いた。

 

 もうすぐ作業も終わる。
 支柱の入れ替えに手間取ったが、後は説明用の紙を画鋲で留めるのみだ。
 画鋲はどこだっけ、と思いながら、工作室の出入口あたりの荷物を見ていると。
 しばらく黙っていた杉街さんが。
 通る声で、急に、独言のように言い放った。
「――意味、」
 放課後。
 第二校舎の、一階の工作室。
 あまりにも静かだったからか。
 その声は、とてもよく聞こえたのだ。
「意味、あるんですかねぇ、この作業って」
 言葉の後に。
 本来の沈黙が降りて、何故か、それが異様に思えた。
 私は振り返って、杉街さんの顔を見やる。
 彼女は、いつも通りの平然とした、目に見えない何かを楽しんでいるような面持ちで、小さな両手のひらで、ぺたぺたと展示板の壁紙に触れていた。
 私は視線を展示板に向けてから、杉街さんに答えた。
「意味は、あるでしょう」
 言いながら、なるべく声音を落ち着けようとしている自分に気がついた。
 その私自身に、恐ろしい予感のような嫌悪が沸いた。
 そして予感は的中した。

 

 あまりにも唐突だったので、対応できなかった。
 杉街さんは、展示板の隣をすたすたと歩いて、私の目の前に立って、
 何故か、普段のように浮かべている笑みがその顔から消えていて、
 急に私の肩と首の間を、両手で掴むと――。
「意味意味意味意味意味意味」
 おいおいおいおいおいおい。
「意味意味意味意味意味意味意味意味」
 ななななななな、何やってるんだおい。
 意味。
 その二文字を、大声で均一に繰り返しながら。
 同じリズムで、杉街さんは、私の肩を凄まじい勢いで揺らし始めたのだ。
 杉街さんの細腕とは思えないような、強い力だった。
 私の髪の先が滅茶苦茶に動き回り、私の頬や杉街さんの腕にまとわりつく。
 上半身全体が大きく揺さぶられて、肺呼吸がおかしくなりそうになる。
「意味意味意味意味意味意味意味意味意味意味」
 何やってるんだ、何を!
 私は声を上げようとしたが、大きな揺らぎのせいで、息をするのに精一杯だ。
 急速に振動する視界の中で、杉街さんの顔を見る。
 信じられないような無表情が、そこにあった。
 彼女の腕は異様なまでの力で、私の体を動かし続けていた。
「意味意味意味意味意味意味意味意味」
 やめろやめろやめろやめろ!
 まったく、冗談じゃない!
「意味意味意味意味いみ……」
 杉街さんの両手首をなんとか掴み、私から思い切り引き剥がした。
 ほぼ同時に、私を揺動させようとする彼女の手も、止まった。

 

 ――私の視界の中に、私の大きくない手でも簡単に一周できる細い手首と、箸を握ったこともないような杉街さんの白い手の肌が収まった。
 そこで改めて、得体の知れない恐ろしい何かを、私は実感した。
 当の杉街さんは、真正面から私を見つめている。
 小動物じみた顔立ちの、その薄い唇の端は、やはり上に歪んでいた。
 また、あの薄気味悪い笑みを始めていた。
 何、考えてるんだ。一体。
 訳の分からない肩揺らし攻撃の時間は、せいぜい三十秒にも満たなかったろう。
 それでも、私の心身をやたら消耗させたのは確かだった。
 呼吸が荒くなっていた。
 何かを、杉街さんに言い返そうと思った。
 しかし、果たしてそれが有効だろうか。
 声を出すのも、なんだか馬鹿馬鹿しくなってくる。
 彼女の手首から、手を離していいものか困った。杉街さんのことだ。また唐突に何かをしでかすんじゃないか、という危険性を私は直感的に把握していた。

 

 今は、別に冷えは感じない。
 乱層雲の暗い色が覆う日暮れ。
 第二校舎の、だだっ広く薄暗い工作室の端で。
 私たち二人は正面から向き合い、私が杉街さんの両の手首を掴むという状態で、視線を交わし合っていた。
 異様な沈黙の果てに。
 ふと、
 無機質な笑顔と丸っこい眼で、私をまっすぐ見据えながら。
 杉街さんは、私に訊いた。
「今のって、意味、ありました?」

 

 全身がぐったりするのを感じながら、私は、
「……なかったかなあ」
 と、答えた。

 (終)