(調査二十四日目・幕間)

(調査二十四日目・幕間)
 
 
 まるで死体のように、メロウ姉さんは椅子の上で毎晩ぐったりと寝そべるのだ。細やかな彫刻の施された、木製の安楽椅子――この街では、木製品はそれだけでも珍しい――の背を思い切り傾けて、ほとんど仰向けのようなだらしのない格好で、顔の上に両手で掲げた『本』の印刷文字を、姉さんは黙然と凝視した。
 本を構成する紙群を閉じる厚手の黒い表紙には、古い共用語と思われるタイトルが彫刻のような白い意匠で印字されていた。強いデフォルメのためか、あるいはぼくの共用語語彙の貧弱さのためか、ぼくはその題名を読み取ることができない。
 そうだ。まず『本』の説明をしなければならなかった――本とは、いわば地球古風趣味に属する奇妙な形式の印刷媒体だった。ぼくらが普段接しているドキュメントやリーフレットの類とは完全に一線を画している。十数センチメートル四方に切り揃えられた長方形の白紙に、専用インクでの単色活版印刷(そんなシステムが今もどこかで運用されているなんて!)を施したものを、一辺にぴったり沿うような沿う何らかの形で――恐らく分子蒸着技術で――束ねているのだ。そして厚紙の『表紙』で挟み、ひとつのまとまりにすることで、携行と読解を可能とした完全無垢たるアナログデバイスである。ぼくは『本』というこの媒体についてそれ以上の素性は知らないが、その製造の全工程において専用の機械類が用いられている事実は疑いようがなく、また「たとえ少なくとも欲しがる人がいるから供給もしている」類のアンティークであり――その類の物品の常として、おしなべて高価だった。
 データベースとフィールド操作盤と網膜投射を併用すれば、遥かに安価で手軽、かつ身体への負担も小さい形で、まったく同じ文章が読めるのにもかかわらず、ぼくの姉さんはこの本という超原始的フォーマットをとてもよく好んだ。『本棚』(お察しの通り、本を置くための棚だ)なるものを複数注文して、この家のリビングと自室に持ち込み、ジャンルや分類ごとに背表紙を並べてしまうほどに……。遠き星々から専用便で輸入された本たちの総数は、一千を優に下らない。
 野暮ではありたくない。他人の趣味に対して、「希少資源の浪費では?」とか、「その姿勢は腕が疲れないの?」とか、「そもそもその形式に何の意味があるの?」とか、そのような類の質問をぶつけるつもりは、ぼくにはこれっぽっちもなかった。それにしたって、ぼくの抱いているそうしたごく普遍的な感慨は、ほんの僅かなりとも、態度や表情として漏出してしまうのかもしれなかった――。傍若無人のくせに繊細過敏なメロウ姉さんは、その気配をぼくから感受したのか、手に取っていた『ハードカバーの書籍』を眼前まで近づけて、「すんすん」とあえてゆっくり鼻を鳴らした後に、顔の下を本で隠したまま、灰色の瞳だけをぼくに向けて、こう言い放ったことがある。
「においが、いいんだよね」
 姉さんは今夜も、そんな魅力的香りに満ち満ちた(らしい)本の一冊を両手に掲げて、マホガニー木材製の安楽椅子に寝そべるように寄りかかっている。例の芯の強い視線で活版印刷製の文字列をまっすぐ凝視しつつ、しかし唇の端を微妙に歪めながら、滔々と読書に勤しんでいた。
 ぼくは、そんな姉さんの斜め上――リビング、あるいは大泡室の上部に備え付けられた一連の装置を見上げる。室内の気体循環システムは音もなく正常動作している。外部フィルターはぼく自身が昨日交換したばかりだった。修理用ドローンをレンタルすることもできたが、多少なりとも依頼料は無視できなかった。ドローンに雑務を任せすぎるのは良くないとぼくは思う。できることなら、自分でやった方がいい。
 自室のバッグに残されたカプセル型閉塞観測装置を、ふと思い出した――今日の『崖下』での地質取材の情報が、その内部に保管されているのだ。どう調整してどう切り取れば、゛この世界に最初からいない”エアリーオービスの痕跡を完全に抹消する形で、公開レポートの情報として利用できるか、帰路から延々と思索していたのだ。
 崖下の地質データは一介の大学生のレポートを構成するものとしては既に十分に整っていたと思うけれども、提出期限までには更に完成度を高めておきたかった。それは評価のためというよりは、ぼく自身の一種の矜持に由来している。ぼくは「地元の世界の地質調査」というこの課題において、教授と査定アーティからのありふれた評価ラインなどは関係なく、自ずから定めた水準の記録として、それを残したかったのだ。叶わないことをあえて言うならば、もしかしたら、これから銀河系が茫漠たる時間を経ても、この惑星ナピに興味を抱いた何者か参照に耐え得る、一定以上の蓋然性と客観性を有する、『記録』として。
「あ、そういえば」
 安楽椅子のメロウ姉さんが、ぼくの背に急に声をかけた。
「例のレポートの地質調査、まだ続けてるんだっけ。毎日荒野くんだりまで」
 僕の精神の最深部が、ぎくりとするのを明確に感じ取ってしまった――メロウ姉さんが『荒野の地質調査』の話題に触れたのは、ぼくの記憶と記録によれば八日前に遡る。
 不意打ちだった。
 絶対条件。
 エアリィオービスの秘匿。
 落ち着け。
 相手は他ならぬ姉さんだ。機敏の聡さはぼくの想定を遥かに上回る。もちろん、ぼくは細心の注意を払っていたし、準備も万全のはずだった――なんといっても、まさにこのような状況に合わせて、鏡面に向けたシミュレーション練習さえ、独りで敢行していたのだから。
 ぼくは、六メートルほど離れた位置に座っているメロウ姉さんに、事前の準備通りの動作で振り向きつつ、事前の準備通りの言葉を、事前の準備通りの声音で、正確無比に回答した。
「……他の課題ももう終わっているし、地質学のレポートは理想的な形になるまで、やっておきたいんだ」
 瞳が、
 椅子に身を預けながらも、メロウ姉さんのふたつの灰色の瞳が、ぼくの顔を見つめていた。
 息を呑むのを、殺した。
 こちらの脳幹の奥底まで見透かして、すべてを剥ぎ取ってしまうような、一対の、輝き――。
 だが、視線が重なったのはほんの微々たる瞬間で、すぐに姉さんは手元の『本』に意識を戻すと、「ふうん」と唸った。
「理想形、ねえ。学生さんはまことに結構だこと」
 その声に含まれていたのは、にべもない無関心と、明確な眠気だった。
 どうやらぼくの懸念は杞憂に終わったらしい。姉さんの姿勢は先ほどからまったく変わっていない。プラチナ・ブロンドの長髪を傾ぎきった椅子の背もたれに無造作に垂らして、寝間着の乱れも構わずに、両手に取った黒いハードカバーの内面を見据えている。ただ、その本の内容は若干退屈なのかもしれなかった。
 また、やっぱりその読書姿勢は、首周りの筋肉に相応の負担がかかるようで――首を左右に傾いで、メロウ姉さんは「ぐあ」と小さな溜息を吐いた。

 そして、
 声に出す事実があまりにも当然であるが故に、特に強調する必要もない、
 とでも言わんばかりの、実に落ち着き払った口調で、
 姉さんは、こうつぶやいた。

「でもわたしは、みんなの理想形の惑星開発者、だからなあ」

 ――つい、怪訝な面持ちをしてしまったかもしれないし、唖然として表情筋を動かせなかっただったような気もする。
 ともあれ、ぼくは普段通りの姉さんの放言を沈黙で受け流した。そして可能な限り自然な歩調でもって、リビングを横切って自室へとまっすぐ向かった。
 扉を閉めて物理鍵をかけてから、ようやくひとつ溜息を吐くことができた。
 床に無造作に置かれたバッグのサイドポケットから、カプセル型閉塞観測装置を取り出して、総合情報処理端末の曲面モニタの前に腰かける。

 カプセルを端末に載せて、生体認証接続を行う直前に。
 ぼくは、ふと、手を止めた。
 指先に握られていたのは、観測・記録デバイスである卵のような青い物体だった。
 カプセルを、ぼくは見つめていた。
 そしてその時、まったく同じように。
 カプセルもまた、ぼくを見つめていたのだ。

 ――とてもくだらない、ある思惑、あるいは疑問が、ぼくの大脳皮質の内奥を反響する。
 そのシナプスの摂動は、まさにくだらない、根も葉もない思い付きそのものであって、一笑に伏すまでもないような代物だった。
 事実、ぼくはすぐにそれを振り払った。

 ただ、少しだけ、考えてしまっただけだ。

 ――ならば、ぼくは、あの少女にとっての理想形のひとつに、なれているのだろうか。
 あるいは、なってしまっている、のだろうか。

(『惑星開発姉弟のクリスマス』より)

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