第一章 The Exposed – さらされたもの

 [目次へ]


 第一章 The Exposed – さらされたもの


 
 

1.

 

 『血の鎖』なるものに導かれたわけでは、断じてない。

 

 睥睨する限りにおいて、終わりのない紅い大地と、それを圧倒的に取り囲む朱色の空。
 そのさなかに、ぼくは立っている。
 そして、停めたばかりの一人用(ソロ)ホバー・クラフトの傍らで、ぼくは地表面に織りなされた、大いなる亀裂――『谷』の全貌を、見渡していた。

 ――あるいは、こんなことを、ふと思ったりもする。
 いかなるものも、歳月による変化というものを避けられないのかもしれない、と。
 例えば、ぼくについて言ってしまえば――初等教育の時期はとうに過ぎてしまっており、故に、いかんせん今のぼくの関心は、遠隔(テレ)カレッジの『基礎地質観測学I』――その第二期末レポートに向けられている。
 『観測学I』受講者に与えられた課題は、以下の通りだ――『当該学生の生活圏の近隣のある一地点における自然地質学的、または造成地質的特徴について、一定の期間、学生自身が実測した客観的データに基づいて、場合においては仮説を交えながら記述せよ』。提出期限は翌年一月八日とする。
 ……文面こそ少しばかり物々しいし、加えて、なんだかそっけない。ともあれ、かいつまんで言うならば、『身の回りにある地形を観測してね』という、ごくシンプルな課題だ。
 この文面を見て、すぐに心に浮かんだ場所だった。
 ぼくの住む街から北東へ――正確には、ナピ方位四十三度七分へ――荒野を前進して、およそ二十七.六キロメートルの地点。
 そこに今もひっそりと佇む、ぼくの幼少の記憶に浮遊していたあの大きな谷間は、地質学レポートの対象として、実にふさわしいものに思えたのだ。

 ひとりで荒野に出ることも多くなった。それでもぼくの知る限りにおいて、ここまで大きい渓谷地形は、街の近くには存在しなかった。望ましいことに、行き来の利便性も悪くない。確かにここは人里から離れたナピの荒野のど真ん中だけれども、日常的に家からホバー・クラフトで通えない距離では決してなかった。
 計測装置も起動せずに、まず最初に発見することができた、重要な学術的事実がある。
 ――子どもは、やむにやまれず、過大評価に走りがちだ、ということだ。
 ひとたび、地形マップに従ってホバーを走らせれば、街からの距離があの記憶で感じられたほどには遠くなかったことを、痛烈に思い知らされてしまった。
 子どもというのは、いかんせん肉体が小さいから、相対的になんでも大きく見えてしまうのかもしれない。
 そして何よりも幼少の過大評価が一際目立ったのは、他ならぬ谷間そのものだった。
 前述した、『どんなものも歳月の変化を避けられない』という話にも与するのだけれども――こうして実地で観察してみると、六歳当時のぼくが“感じていた”、この渓谷のサイズのギャップには、まったくもって驚かされるしかない。
 確かにこの谷は、比較的に見れば大規模な地形だ。
 とはいえ、せいぜい全長は二百メートル弱といったところで、『谷の果てが地平線に埋もれて、まるで全容が見えない』などということは、決してありえない。子どもの頃との視点の高低差もあるのかもしれないが、それよりも印象や心理的要素による差異に思えてならない。また、もう一つのパラメーター――崖の深さについても、『まるで底が見えない闇の深淵』のようにあの時は感じられた一方で、今、崖の際に少し身を乗り出してみると、底の大地の光景ははっきりと見渡すことができてしまうのだ――谷底までは、低いところでせいぜい二十メートル程度だろう。プレート状の岩肌の上に、つつましい岩石の塊が転がっているのも、明瞭に視認できた。
 あの日、父さんとともにこの谷間と直面した時、ぼくはしばらく体を動かせなかった。心底から湧き上がる恐怖に、飲みこまれていたのだ。
 あたかも、全身にのしかかってくるようにさえ感じられた、この谷全体が包有し発散する、超自然的な凄絶さとでもいうべきもの――。
 ぼくの記憶の中に、それは厳然と刻み込まれている。
 そして今、ぼくが立っているのは、まったく同じ谷の縁だ。
 だが、あの時に直面した圧迫感は、微塵も感じられなくなってしまった。
 幼少時の過大評価と、その相対的な埋め合わせ。
 あるいは。
 ――大人になるって、こういうことなのだろうか?
 ……そういうことかも。
 くだらないことを考えながら、ぼくは谷を崖下へ降りるための斜面を探した。この谷間の形状がそのままなのであれば、崖に沿った形状の、徒歩で降りられる傾斜が存在するはずだった。それらしい場所は思いのほか簡単に見つかったので、ぼくは網膜投影ホロを指のジェスチャーで呼び出し、ホバーの本体と関連付けられたパーソナル・マップ上に地点マーカーを設置した。これで今後の移動が少しは楽になるはずだ。
 足下の岩盤は土砂の少ない安定したものだった。それでも滑落には気をつけながら、決して広くはない天然の斜路を降りていった。
 ほどなくして。
 谷間の底――すなわち崖の下に広がる、開けた領域に、ぼくは辿り着いた。

 

 ぼくは、そこで初めて、明確なノスタルジーと言えるものに直面したのだと思う。
 崖下の空間。
 閉ざされた未知の領域は、どのような意味においても、健在だった。
 静謐で、光に満ちた、地の底の庭園。
 その広大さにおいて、六歳の記憶に沈殿した印象と、眼前の光景を、ぼくはまざまざとオーバーラップすることができた――そこは左右から巨大な壁に挟まれて、それでいて十分な広大さと、奇妙なほどの明るさを有する、奥行きを持つ長方形の空間だった。
 すべてが、あの頃のままだった。
 ぼくは大いに安心すると同時に、若干の奇妙さも感じられた――この場所は、先ほど地表で見た、『あの頃に感じられたほど大きくはない谷』の底面にあたる。つまり、その広さにおいてはほとんど同一なのだ。それと知っているにもかかわらず、やはりぼくの立つこの空間は、とても広大なものに感じられた。大地の亀裂と、その底部のもたらす印象のアンビバレンツ――なんだか、だまし絵を見るような気分だ。
 思わず、目を細めてしまっていた。深さ二十メートルに及ぶ崖の底なのに、あの日と同じく、やはりこの大地は、奇妙なほどに明度が高かった。地表よりも明るいようにさえ感じられる。
 どうして、ここまで明るいのだろうか?
 ぼくは顔を上げて、この空間を挟む、二枚の巨大な壁面――すなわち、崖の断面を仰ぎ見た。
 今ならば、ある程度の推測くらいはできる。
 まず、この谷間の形状と地点が、とても太陽光を取り込みやすい配置にあるのだ。この惑星ナピの自転軸は太陽への軌道面に対して垂直に近く、またこの辺りはナピの赤道直下であるために、ナピの朱い太陽は東から西の空へと、ほとんど天頂を通るかたちでまっすぐ移動する。それが同じく東西に走るこの谷間の形状と、かなりの精度で一致していた。
 そしてこの場所を地表面よりも明るくしている理由は、反射光の存在に違いない――巨大な壁面の一対を見ながら、ぼくは確信する。切り立った二つの崖は、ナピにありふれたごつごつとした形状の大地よりも、ずっと平たい面を覗かせている。また断絶面であるためか、若干色も明るい――つまり、陽光の吸収率が低い。天から降り注いだ陽光の一部はこの壁面を反射して、それらが集積するのは、谷の底部であるこの崖下に他ならない。
 つまり、入り込みやすい直接光と、二枚の壁の反射光のコラボレーションが、この空間を地下でありながらも光に満ちた世界へと据えているのだった。もちろん、十四度というナピの赤道傾斜角が存在する以上、時節による変動は認められるだろうし、陽光の届かない朝や夜は地表よりも大きく明度が落ちる可能性が高い。その辺りは今後の崖下の測定データから、更に詳しく把握できるかもしれない。
 今後の調査を楽しみに思いながら、ぼくは崖下の地表を壁面に沿って歩き、この渓谷地形の所々を確認していた。谷の底は歩きやすかった。やはりこの谷の形成過程に由来しているのか、二十メートル上にあるナピの一般的な荒野よりも、地表面の凹凸や岩石の量が少ない。見る限り、構成物質はナピにありふれた酸化鉄の割合の大きい玄武岩と同じようだが、突起や岩石はほとんど見られず、平たい岩のプレートが幾層にも積み重なっている景色は、見慣れている地表面とは趣が異なっている。
 『観測学I』レポートのための観察・記録過程は、準備も含めて、今日からおよそ二ヶ月間――六十五日を予定している。一学生の単なる課題レポートの測定としては少しばかり長すぎるのだけれども、他の講義のレポートはもうあらかた仕上がりそうだったし、ぼくは都合上、この科目で良い成績が欲しかった。そうした理由を差し引いても、何より、ぼくはこうした地質調査が好きだったのだ。
 この崖下の広大な空間において、どのような観測用センサーをどう配置するのが望ましいのか――ぼくは既に、そんなことを考え始めていた。
 しかし、大岩と壁面に挟まれて、やや狭くなった道を通り抜けた直後に、その思考は中断させられることとなる。
 あるものが視界が入り、立ち止まった。
 『洞穴(どうけつ)』だった。
 この崖下の空間を作り出している、一対の並行する巨大壁面。
 その一枚の最下部、地面との間隙に。
 逆三角形の暗い入口が、穿たれていた。
 あの日と、まったく同様に。
 猛烈な勢いで、記憶が湧き出してきた。

 ――幼い背に抱えた貨物の重さ。歩く度に体の重心を左右に揺らしたその感覚。見知らぬ世界への恐怖と高揚。教えられた緊急用シグナルブーストの使用手順。どこまでも続くようだった谷間の底の暗い色。そして奇妙な話を吹き込まれた、ランタンの光ばかりの洞穴の奥底で、その入口を前にして、
 長い、とても長い影を落とす、父さんの背。

 思わず、声を出しそうになった。
 今ぼくが立っているプレート岩盤の上が、あの日に父さんが立っていたところと完全に同じ地点であると、咄嗟に思ってしまったからだった。馬鹿げた思い込みだった。すぐに違うと分かった。まるで見当外れだ。ぼくの立つ場所は、やっと入口が見えたところなのだ。その場所は、もっと洞穴に近いところだ。
 ――参ったな。
 ――怯えるような頃でも、もうないだろうに。
 少し、気を落ち着けよう。
 洞穴の入口から目を逸らして、ぼくは何気なく、もう片側の壁面へと視線を転じた。
 そして、再び、呆然とすることになる。

 ぼくが視線を釘付けにしていたのは、壁面に接した隅のところ――この崖下の地表を構成しているプレートが何層か引っ込んで、やや落ち窪んで暗くなっている広い空間だ。
 その中央に、異常な物体があった。
 大量の疑問を必死に処理しながら、ぼくは十数メートル先に見えたそれを見据える。
 黒く焼け焦げた、金属の残骸のようなものに見えた。
 見る限りにおいては、動いてはいないし、煙や光を放っているわけでもない。
 ジェスチャーでスリング・ベルト上のネクタル・モジュールを操り、緊急用フィールドの正常動作を目視で確認する。
 心もとないが、多少の爆破衝撃や熱線なら耐えられるように。
 ある程度まで、接近してみることにした。
 落ち窪んだ縁の辺りまで歩み寄ると、多少は分かってきた――どうやら、何らかの構造物の、剥き出しになった骨組みのようだ。高さはぼくの背より小さいが、全長は間違いなくぼくよりも大きく、幅も広い。本来は細長い形状だったものが、ずたずたに破壊されて、横倒しにされているような印象を受けたが、元の形状を知らないために判断できない。全体の先端部と思われる箇所に操作盤のような金属部を確認したが、やはり恐らく熱によって黒く変色しており、かつ大部分が破損しているために、これも判別が難しい。
 息を飲むしかなかった。
 ――なんだ、これは?
 ただの小さな洞穴の入口を見て、過去の記憶を呼び起こされてしまったのとは、まったく話が違った。
 この純粋な自然地形に、完全に異質の物体が鎮座していたのだ。
 もちろん、前回にここに来た時――父さんとともに来た幼少の時分には、こんなものは、なかった。
 ――いったい、どうすれば……?
 謎めく物体をただ観察するばかりで、今後のことを闇雲に考える余裕さえなかったぼくを、まるで待ち焦がれたように。
 何かが、聞こえた。

 

 気付いた時には、首を、視線を、そちらに向けていた。
 例の洞穴の、暗い入口だった。
 そして、
 入口の傍らに、『それ』がいた。
 猛烈な違和感があったことだけは覚えている。
 およそ十メートルほどの距離があった。
 前述のとおり、崖下の空間は光に満ちており、明瞭な視界が確保されていた。
 それでも、なお。
 視界の中に現出した『それ』の正体を、ぼくは当初、まるで認識できなかったのだ。
 あまりにも意外、かつ理解の難しい情報に対して、一時的に脳が処理を拒んだのだろう。
 ――あるいは、視界は、明瞭に過ぎたのかもしれない。
 平常時の地表でさえ強いのにもかかわらず、反射光のために更に重厚に彩られたナピの朱い日差しの中で、ぼくを取り囲んでいた世界は、まるで現実感覚を失っていたから。
 『それ』が、ぼくに向けてまっすぐ接近を始めた時も、立ち竦んでいるしかなかった。
 驚異的な速度のアプローチは、瞬く間に終わりを告げる。
 ぼくだって、何もできなかったわけじゃない。
「やめてくれ」と、言おうとした。
 や、で息が止まった。
 なんの迷いもなく、『それ』はぼくをあっさりと押し倒したのだ。抵抗はしたつもりだ。意識的ではなく、生理的な反応として、ぼくは抗ったのだと思う。恐怖と嫌悪から、腕や胴体を抑えつけてきた外部からの力を振り解こうとしたのだ。
 無理だった。
 背をしたたかに地面に倒され、喘ぐ間もなく、『それ』は自身の全重量を巧みに用いて、ぼくの胴と腕の動きを徹底的に封じた。
 『それ』の指先に刹那の輝きが見えた途端、刃物と思しきそれが、ぼくの喉元に圧迫を伴って抑え付けられた。
 冷たい感触。
 正確無比な頸動脈分岐の位置。
 すべてがひっくり返った、仰向けの視界の中で。
 そびえ立つ崖と崖の合間に、ナピの太陽が見えた。
 恒星の輝きの、隣で。
 不可思議な琥珀色の髪の一束を、背で振って。

 『それ』は、
 ぼくに向けて、
 思念に満ち満ちた大声で、何かを、一言告げた。

 言っていることが、まるで分からなかった。

 

 人間の少女だった。

 

2.

 

 ぼくを、睨んでいた。
 ふたつの黒瞳が。
 強靭な意思を、たたえて。

 目前の少女は、最初の一言より、決して口を開かなかった。
 太陽を背に、その上半身が陰っている。
 何を思うのか。
 真剣そのものの面持ちで、反射光に僅かに輝く瞳で――ぼくの顔を、ただ見下ろすばかりだった。
 だから、その視線の受容者たるぼくも、押し黙るほかにない。
 
 不可解なほどに光あふれる、谷間の底――崖下の世界。
 その中心の平たい岩盤の上で、まったく見覚えのない少女に、ぼくはあえなく打ち倒されて。
 たった今、生殺与奪の権を握られている。
 このような時でさえ、ぼくの脳裏に真っ先に浮かんでいたのは、あるひとつの、やや場違いな疑問だった。
 ――どうして、こんなところに、人が?
 街の外で人と出会った程度のことで、何を大げさな、と、思われるかもしれない。
 しかし、である。
 ぼくが生きるこの小規模開発惑星ナピの、たった五百人を少し超えるばかりの人口や、そのほとんどが不毛の荒野になど好き好んで立ち入らないこと、そしてその広大な原野において、知りもしない人間と出会うという状況の、あまりにも小さすぎる確率――。
 この少女との邂逅そのものが、異常事態と言えた。
 事実、荒野の中で誰か知らない人物と会ったことなど、ぼくは今までの人生で一度たりとも経験したことがなかったのだ。
 探索中に突然現れた細長い影が、すぐに人であると認識できなかったのも、ある程度は仕方がない。
 なんとも不甲斐ない話だけれども。

 そして、今。
 ぼくは、仰向けの姿勢で少女に馬乗りにされて、肩と首を巧妙に抑えつけられていた。
 視界の中に見える、日焼けした細腕。
 少女の体躯は、ぼくよりもずっと小柄に見えた。
 そこからはまるで想定できないほどの、強烈な圧迫力だった。
 肘から地に押さえつけらえた腕が、まるで動かせない。
 自分の首元に、どうしても意識が向かう。
 小さな、冷たい感触。
 刃物の存在を、いまだに現実のものとして受け止められない。
 それを平然とぼくに突きつけてきた、まるで見覚えのない少女は。
 今もなお、両の眼を見開いて、黙念と、ぼくの顔を凝視している。
 なにを、するつもりなのか。
 ――殺す気、なのか。

 はじめは、見知らぬ生物の鳴き声のように、聞こえた。
 すなわち。
 その音声が、眼前の少女が放った『言葉』であると、ぼくには一瞬分からなかったのだ。

 これまでの沈黙とは、完全に一転して。
 少女は、その口を開いて、喉を震わせて、凄まじい勢いをもってして、声を発しはじめた。
 心底から、怖かった。
 紛れもなく目の前のぼくに放たれたそれは、猛烈な、爆発的な、怒涛の勢いの――聞くだけで震え上がってしまうような、尋常ならざる大音声だったのだ。
 意味は、やはり、まるで分からなかった。
 狂気の産物であるかのようにさえ聞こえたそれが、実は何らかの単語の羅列であるということには、数呼吸後にようやく気がついた。
 しかし、まったくの未知の言葉ばかりだった。
 少女は、ぼくに向けて、乗せた体躯を揺らしながら、矢継ぎ早に声を放ち続けている。
 その言葉は、聞く限りにおいては、怒りと憎悪、敵意に満ちあふれているように思えた。
 当然、首に突き付けられていた金属を除けて、彼女の両手がぼくの服の首元の襟を強く掴み上げてきた。
 容赦のない、凄まじい力だった。
 繰り返して放たれる、何らかの詰問じみた言葉と同時に。
 服を猛然と引っ張られて、頭を前後に揺らされた。
 霞む視界の中で。
 大きく開かれた少女の口が、ほんの一瞬だけ視認できた。
 ぼくに向けられる行動には、まったくの容赦や躊躇がなかった。
 故に、強い意志が感じられた。
 少女の持つ、深い黄褐色の――琥珀色、がより適切だろう――束ねられた髪が大きく揺れて、ぼくの頬を叩くこともあった。
 何も、できなかった。
 一切の抵抗は無駄に思えた。
 正直に言って――突然の事態と謎、そして死の恐怖に、ぼくは打ちひしがられてもいた。

 少女の叫び声は、ナピの大地を抜ける猛風に似ていた。
 やがて、終わりを見せた。
 あるいは、伝わったのかもしれない。
 体の自由を奪われ、頸動脈に刃物を突きつけられて、相手の言葉が分からないという、この状況の中で。
 ぼくが彼女に示すことのできた、たったひとつの意思。
 すなわち、
 ――君の話す言葉の意味が、ぼくにはまったく理解できない。
 という、声なき声が。
 ぼくを締め上げて、獰猛な声音で詰問を続けていた少女にも、ついには感じられたのだろうか。
 まるで、申し訳ないかのように。
 服の襟から持ち上げていたぼくの頭部を、彼女はそっと地面に載せた。
 やがて、あの情念に満ちた音声の代わりに、静かな息遣いが聞こえるようになった。

 ――そして、ようやく、ぼくも。
 あるひとつの事実に、気がついた。
 単なる怒声を優に超越した、あるいは最初から怒声でもなんでもなかった言葉を、五臓六腑の底から放ち終えて。
 見上げた先にあった、小柄な少女の表情は。
 今にも、泣きそうだった。
 すぐに理解した。
 ぼくに対して、怒りと憎しみをぶつけていたわけでは、なかった。
 ぼくを詰問した挙句に、殺そうとしたわけでもない。
 この少女は、ただ、

 心からの要求を、懇願していたのだ。
 湧上がる疑問を、尋ねていたのだ。
 見知らぬ人間が、怖かったのだ。

 つい、さっき。
 二人が出会った、その瞬間から。
 きっと、ぼくよりもずっと、彼女はぼくを恐怖していたのだろうと思う。

「……ぼくは」
 喉が枯れていた。
 つい、咳き込んでしまう。
 改めて、視界の中の少女に、焦点を合わせた。
 強い意志を宿した――しかし今にも崩れ落ちてしまいそうでもある、その面に向けて。
 ぼくは、告げた。
「君に、危害を加えるつもりはない」
 彼女が必死に放っていた、『言葉』の数々。
 それは、まるでぼくの知識の範疇外のものだった。
 だから、ぼくの語るその意味も、きっと伝わるまい。
 けれども。
 声の加減や、それを放つ表情については、どうだろう?
 ――対面会話というコミュニケーション手段における信号は、放つ言語の意味そればかりではない。
 それは多分に、非言語的な方向性を含んでいる。
 ならば、あるいは。
 言語圏のまったく異なる彼女も、たとえ明瞭な意味ではなくとも、理解はできるのかもしれない。
 ぼくの意向くらいならば。
 あるいは、感情くらい、ならば。
 伝わりうるのではないか。
 そう思った。
 祈りにすがりつくような、思いだった。
 少女は。
 しばらくの間、体の下のぼくを、硬い表情で見据えていた。
 その黒瞳が、少しだけ困っているように見えたのは、ぼくの思い違いだったろうか。
 ――やがて、大きく息をひとつ吐き終えると。
 指先に取っていた小さな金属片を、その白い薄手の服のポケットに入れて。
 彼女はいともあっさりと、ぼくに加えていた体重を解いて、離れた。

 ここは、光に溢れる、静寂なる谷間の底。
 ついに解放された仰向けの視界の中で、二十メートルの高みにそびえる崖の端の一対が、間隙を満たすナピの朱く澄んだ空と太陽が、ぼくを見つめていた。

 ようやく立ち上がってから、ぼくが何かを告げる間もなく。
 謎の少女は、何の予備動作もなく、ぼくの手をその手で躊躇なく取ってきた。
 思わず彼女に目を向けるも、その面持ちは硬質を保っている。
 しかし、どこか先ほどまでとは違う、ある一定の情感が表れているような印象も受ける。
 消極的な妥協、その端緒――とでも言うべきだろうか。
 ひとつに束ねられた、輝かしい琥珀色の髪を、一度大きく振って。
 彼女は、崖下の平たい岩盤の上を歩きだした。
 ぼくを、後ろ手に引くかたちで。
 こうして並び立ってから改めて、ぼくは少女の小柄さに驚いてしまった。背丈もそうだが、腕や胴の無駄のない細さが際立っていた――この華奢な体で、ぼくを一撃で押し倒して、動作を完全に押さえ込んでいたとは。いや、もちろんぼく自身の運動不足やらも、大いに関係しているのだろうけども。
 ぼくの手を一方的に握る指先の力は、やはり少女の外観とは釣り合わないほどに、強い。
 無言で、陽に照らされた紅いプレート上を、まっすぐ堂々と歩いていく。
 あまりにも素早く整然としたその動作に、再びぼくが怖れを覚える暇もなく。
 琥珀色の髪の少女は、ぼくを招き入れた。

 ――他ならぬ、崖の下に開かれた、あの洞穴(どうけつ)の入口へと。

  

 簡潔に言ってしまえば。
 洞穴の内部は、人工的にライトアップされていた。
 そして、大量のコンテナ群――積み重ねられた不可解な荷物たちで、満ち満ちていた。
 ライトの照らす地面には、布製のカーペットが敷かれており、寝台らしきものや、棚や、作業テーブルと思しき物体が見受けられた。
 追憶の中で――ぼくと父さんのひとつの探検が奇妙な終着を遂げた、洞穴。
 そこは今、他ならぬ少女の棲家と化していたのだ。

 驚愕の思いでぼくが、傍らの琥珀色の髪の少女に、つい視線を移すと。
 ぼくを見返した彼女は、ほんの一瞬だけ、
 口元を歪めて、目を細めて――。

 笑った、のだろうか?

 

 (つづく)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。